備後歴史雑学 

[小早川秀秋1]

 天正10年(1582)、木下家定の五男として近江長浜で生まれた。名を秀俊という。
 天正13年三歳のときに秀吉の養子となり、正室のおね(寧々)が養育していた。おね38歳でもう
自分の子は授からないとあきらめ、跡継ぎを自分の身内からという思いから兄の子供をえらんだ。

  「木下家定」
 杉原定利の長男。豊臣秀吉の正室であった高台院の兄(弟とする説もある)。正室は杉原家次の
娘。子に木下勝俊(長男)、木下利房(次男)、木下延俊(三男)、木下延貞(四男)、小早川秀秋(五
男)、木下俊定、木下秀規。

武将としての器量はあまりなかったが、縁者の少ない秀吉に木下姓を与えた人物とされる。古くから
秀吉に仕えていたため重用され、播磨姫路城主に任じられたうえ、豊臣姓を下賜された。慶長5年
(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍・西軍のどちらにも属さず中立を保ち、妹の高台院の警護を務
めた功績を徳川家康に賞賛され、戦後、備中足守に2万5000石の所領を与えられた。


 天正13年といえば天下人「豊臣」の居城の大阪城はこの年の春頃に本丸が完成した。天守閣の
外観が五重、内部は地上七階、地下二階という九階建ての天主が春の陽を浴びて、大阪の空にそ
の威容が誇らしげに映えた。翌14年には二の丸の工事に着手、16年までに完成している。
 この大阪城でおねは秀俊を、天下人の器量をそなえた男に育てるため幼少のころから、習い事を
あれこれと身につけさせている。
 天正15年茶々が秀吉の側室となり、翌年の後半茶々の懐妊を知った秀吉は、おねが大阪城にい
る手前、天正17年正月に山城国の淀城を秀吉の弟大和大納言秀長と細川忠興に命じて修築させ
た。茶々は秀吉の側室として正式に一城を与えられた。

 淀城で茶々が鶴松を生んだのは天正17年5月27日とされている。秀吉は53歳にしてはじめて男
児を得たことで驚喜した。その児を「棄て」と呼ぶことにした。その当時の民衆の俗言として「捨子は
育つ」という考えがあったことに由来している。側室の茶々23歳であった。
 その頃秀俊はおねととともに聚楽第にいた。おねとしては、秀吉の嫡子が生まれたことで秀俊か
ら鶴松に跡継ぎが変わることの事態に心中穏やかではいられなかった。自分と20ほども年齢の若
いしかも美貌の茶々にすくなからず、妻の座の一角をゆりうごかされた思いがして、秀吉に対しても
今までとは夫婦むつまじく笑顔をかわすことが出来なくなっていった。

 天正18年(1590)は秀吉が小田原征伐を敢行する年であるが、2月に入ると秀吉は茶々と鶴松
を連れて上京、おねと秀俊の住む聚楽第に入った。それは、茶々と鶴松を母大政所と正室おねに
初めて対面させることであった。そこには秀俊もいた。もう分別のわかる九歳になっていた。
 その聚楽第で秀俊と鶴松は一緒に生活することになる。
 小田原征伐の決行の日は3月1日、兵の数は22万にも及ぶ大軍である。4月には早くも北条氏
政・氏直親子の居城小田原城を囲み、長期戦の備えに入った。
 6月に入って秀吉は茶々に下向するよう命を出した。幼い鶴松はおねらとともに聚楽第に留まるこ
とになった。
 秀吉軍は、小田原城を攻めるのと平行して関東の諸城を落としていった。
 7月5日、北条軍はようやく降伏した。氏直は、自分は切腹をもって責任を果すので、籠城していた
諸兵の命を助けてほしいと嘆願した。この氏直の殊勝な志を認め、また氏直は家康の女婿という理
由から助命して高野山に追放した。だが、父の氏政・叔父の氏照と家老の大道寺政繁・松田憲秀
の四人には切腹を命じた。
 関八州を平定した秀吉は、14日には奥州を平定するため小田原を出発する。ここで茶々を帰京さ
せている。茶々は小田原から帰ってからすぐに鶴松を連れて淀城に戻っていった。
 奥州を平定した秀吉は、9月1日に京の聚楽第に凱旋した。

 秀吉はすぐにでも茶々と鶴松に会いたかったが、淀城に飛んでいく暇がなかった。まず聚楽第で
茶会を催している。その頃、朝鮮の使節が来朝して京都に滞在していた。11月には朝鮮正使が聚
楽第で秀吉に会って国書を渡している。

 鶴松は淀城へ帰ってのち熱が続く日がつづいて頬がこけはじめた。
 翌天正19年正月3日ごろから病気がひどくなっていった。
 秀吉はそこで畿内の神社・仏閣に病気平癒の祈祷を行うよう指示をしている。その後容態は落ち
着き熱も下がった。
 8月に入ると暑さもひびいてか、鶴松の容態が悪化した。秀吉は京都から名医を呼びよせ治療に
あたらせたが、8月5日にかぞえ年三歳で息をひきとった。
 茶々は幼い亡骸におおいかぶさりながら冷たい体をだきしめて離そうとしなかった・
 6日には秀吉は、東福寺に入り元結を落とし喪に服することにした。これを知った家康や毛利輝元
など諸国の大名らもおつきあいで髻を切り弔意を示したという。
 妙心寺で鶴松の葬儀がとり行われた。諸国の大名たちは葬儀に馳せ参じた。
 鶴松が亡くなった日の翌日秀吉は元結を切った。この「髻を切る」ということは、一般には出家す
る、すなわち仏門に入る決意を示す現われであるが、しかしそれとは裏腹に、8月6日の記録による
と相国寺の承兄(しょうたい兄の↑に八かぜかんむり)を招いて、以前からの野望であった朝鮮出兵
について語り、承兄に朝鮮へ供奉してほしいと頼んでいる。


 天正19年12月、秀吉は秀次に関白の座を譲り自らは太閤となった。同時に秀俊も参議に任じら
れ従四位下に叙せられた。また唐名で金吾とも呼ばれた。さらに翌文禄元年(1592)には、権中納
言に進み従三位に叙せられ丹波中納言(金吾中納言)とも言われた。
 秀吉は3月26日に茶々を伴い聚楽第を出陣した。
 秀吉生母大政所は80歳の老境に入り体の衰えも著しくなり、大政所の進言にも耳をかさず無謀な
行為をしている秀吉にひどく心を痛めていた矢さきのこと・・・6月に入って容態が悪化した。
 7月に入り医師衆は大政所の死が近いことを悟った。知らせを受けた秀吉は7月22日名護屋を立
っていそいで上洛し、聚楽第に戻ったときには大政所は亡くなっていた。
 母親思いの秀吉は、ただ悲嘆の淵に引きずられるままに茫然と涙にくれていた。
 秀吉は大政所の葬儀を終えて名護屋に戻った。だが情勢は劣勢一途になっていった。

 そのころ秀吉は北政所からの手紙で、聚楽第で留守居をしている秀次の乱行を知らされていた。
 豊臣の行末のことを考えると秀次に自分の跡継ぎをさせることに一抹の不安を秀吉も感じはじめ
ていた。金吾秀俊に将来を託す事態にもなりかねないという思いから、秀俊を翌文禄2年早々、正
式に丹波亀山城の城主に任じた。ようやく北政所のもとから離れることになった秀俊は12歳になっ
ていた。
 羽柴秀勝の転封後何年か城主がいなかったが、秀俊が入封後すぐに五層の天守閣が構築され
た。(明智光秀が城主のときは三層の天主であった)
 秀俊は少年時から酒を飲むのをおぼえ、乱れることも度々で北政所は酒におぼれるようになった
秀俊を叱責し、かつ自分の思いとかけ離れた方向に秀俊が流されていくのを悔やんでいる。
 丹波亀山城主となってからも酒を飲んだうえでの失態をいくどか繰り返していた。

 城主となってほどなく秀俊は名護屋へ出陣するよう秀吉から命ぜられ、3月13日に大阪城へ挨拶
に立ち寄ったときにも、北政所は秀俊に「なぜ私の望みをうちくだくことばかりするのですか。酒を断
ちなさい。あなたは酒にばかされているのです」と単刀直入に秀俊を非難した。
「わかっています。こころえておりますゆえご心配なさらずに・・・」
 秀俊が言葉少なに出陣の挨拶を残して城をあとにするのを、北政所は厳しい面持ちで見送った。
 丹波亀山城へは城代として石田光成、前田玄以が入城している。

 丹波亀山城から出陣した金吾秀俊の一行は10日後の3月22日に名護屋城に到着した。
 陣中で出迎えた秀吉は、相好をくずして両手を大きく広げて秀俊を抱きかかえるしぐさをして、
「いやいや金吾殿ごくろうであった。さぞ疲れたことだろうな」
「太閤さまもご壮健でなによりと存じます。おね様から常々戦況の成り行きなど聞かせていただいて
おります」
「そうか、おねも達者か」
一通りの挨拶の後、秀吉はじっと秀俊の顔をのぞき込んで、
「わたしは堂々を繰返しているが、おねからすでに聞いているやも知れぬが、いづれ太閤としての持
分を金吾殿にすっかり譲るつもりでいる。これは遺言としておねにしかと申していることだ」
「めっそうもございません。わたしのようなものまでにお目をかけていただくなんて」
「だから、しっかりとしてもらいたいんだがや。一時のまよいはそれでもええ。だが、すぐたち直っても
らわないことには武将として大成しない」
「こころえました・・・」秀俊は腑に落ちない言葉を心のうちで繰り返していた。
以後は宇喜多秀家の[文禄の役]を参照してください。


 文禄2年(1593)8月3日、茶々は大阪城の二の丸で男児を産んだ。茶々27歳であった。
 秀吉は思ってもいなかった子どもが生まれたことで、出発を大幅に繰り上げ、8月15日に名護屋を
出発し25日には大阪城に戻った。なにはともあれ北政所を伴って、茶々の胸で眠っている赤子を相
好を崩してわれを忘れて愛児の顔をのぞき込んでいる。秀吉このとき57歳になっていた。幼名「拾」
と命名された。
 大阪へ戻って「拾」に会い茶々と水入らずの一時をすごした。
 茶々は今が秀吉に頼みごとをする、いいころあいと感じた。
「たってのお願いがございまする」 「なんじゃ、仔細を話すがよいぞ」
「父の菩提寺の建立をお願いしとうございます。明年父上の二十一回忌の法要を厳修しとうござい
ます」
「よい思いつきじゃ。その望みきっとかなえさせよう。わかったぞ」
 茶々は、父を自害せしめた張本人がこの目の前にいる秀吉なのである。当然一寺を建立するため
に力になったとしても秀吉には不平をかこつ道理などあるまいと考えるのだった。
 翌文禄3年5月には東山に父、長政の院号のとおり養源院が建立され、二十一回忌をとり行っ
た。


 秀吉は関白職を秀次に譲るに際して、心構え四カ条を申しわたしている。
一、軍に備え、武具・兵糧のたくわえを日頃から用意万端整えて置くこと。
二、天下を治めるためには、厳重に掟を定め、兄弟や親族でもその罪をただし処罰を加えること。
三、朝廷に対しては一身を捧げて勤めること。また家臣など上下を問わず、差別せず実力主義を通
  すこと。万一、忠義のため亡くなった場合には、あと継ぎを立てて一家が絶えないように心構て 
  やること。
四、茶の湯・鷹狩・女ぐるいなどは自分(秀吉)の真似をしてはいけない。程々にしてたしなむ程度に
  留めておくこと。侍女は屋敷内に五人なり十人なり置いても構わないが、屋敷外では、みだらな 
  女遊びをしないよう慎むこと。
 このようなことのないように心がけ、人目のはばかるところへ、やたらと出入りをしてはいけない。

 秀吉は自戒を含め、秀次の関白職としての職責を全うできるよう公私にわたり諭していた。
 ところが、秀次の愛妾は二十八人にも及んでいる。秀吉は女ぐるいをいましめているが、秀次乱行
には北政所もあきれはてていた。


 秀吉は思いもよらぬ嫡子を得て、関白職を秀次に譲ったことを後悔しはじめていた。
 秀吉は北政所に本心を打ち明けた。
「鶴松を亡くして、わしはふぬけのようになってしまっていた。わしは隠居いたそうと考えた。いまから
思うとなぜそうしたかわからぬのだわ。だから関白職を甥の秀次に急遽譲った。秀俊にもと考えた。
秀俊は女のようになよなよと精悍さに欠ける。それに歳もいっていないだけに、秀俊には譲るのは
あきらめた。そもじの甥として手塩にかけて養育してくれたのであるが・・・」
「では、どのように秀次殿と秀俊を処遇なさるお考えなのですか。それ相応の償いが思われまする。
とくに秀次殿には・・・」
「うーむ。よく聞いてくれ・・・拾を関白職にいずれ就かせる考えじゃ。秀次は追放する。秀俊はよい養
子口をさがす」といっ気にいってのけた。
「追放??」おねは思わず声をあげて聞き返した。「そうじゃ」
「正気でそのような判断をなされたのでしょうか」
「まことじゃ。それしかない。秀次は出家の道を選ばせるのだ。秀俊は、養子口をさがして、行く末安
隠に暮らせるよう配慮するつもりだ・・・」
「今晩は寝つけぬ夜になりまする」おねは出家だけではおさまらないと内心思った。


 秀吉は聚楽第にいる秀次を大阪城へ招いてこう迫った。
「よく聞いてくれまいか。かねがね考えていたことだが、いやいや、淀殿が懐妊し男児を生んでから
だが」と言って、秀吉は懐から折りたたんだ書付けを取り出しておもむろに広げた。
「わたしが考えあぐねた末の結論だ、そなたのご意見も拝聴したい。だからここに来てもらったのじ
ゃ」その書付けには、
一、拾に日本国の五分の一を与える。
一、残り五分の四を秀次に与える。
一、秀次の娘を拾の妻とする。 と、書いてある。
「私の考えは拾にそなたの姫君をめとらせ、子どもが出来たらその子に関白職を譲ってほしいのだ」
秀次は「まだ生まれたばかりの赤子の行く末まで案じられますとは、おそれ入りまする」
「わたしがいま申した三つの約束事が、いちばん時宜を得た判断と存じておる」
秀次は「いま正式に聞いたゆえ、気が動転いたしておりまする。いまここで私がご返事申し上げるに
は、適当ではございません。ゆっくりと気持ちを整えたく存じます。しばしのご猶予をたまわりたい」
(おね殿がいるのにどうしたことか、おね殿だったら、こんな茶番劇など賛同しまいに・・・。いずれわ
が命までうばう巨挙にでるにちがいない)
「近々のうちに返事を待っておる。わたしはせっかちな性分での」
 秀次は、秀吉の言葉を背にうけて、そそくさと退席をした。
 聚楽第に帰ってからは極度の焦燥感にさいなまれ、酒びたりの日々をおくった。


 さて次は秀俊の処遇である。秀吉は以前から秀俊を毛利家の養子にと考えていた。
 毛利輝元にはまだ跡継ぎの男子がいなかった(のちに秀就が生まれる)。しかし先年この噂を聞
いた小早川隆景は、(毛利が小早川・吉川を乗っ取ったように、豊臣が毛利に乗っ取りをかけて来た
と思い)毛利元就の子で隆景とは異母兄弟の間柄である「元清」(後に長府藩祖)の子「秀元」を急
遽、文禄元年2月2日に輝元の養子に迎えた。という経緯がある

 再度、石田光成と相談のうえ毛利家へ使者として訪れた黒田孝高は、今度は直に輝元に面会を
申し出た。
 隆景は実家のことゆえはせ参じて、もうこれしか打開策はないと覚悟して輝元に対面した。
 輝元は叔父の隆景に頭があがらない。
「そなたの養嗣子には断じて承服できない。もはや秀元との縁組を破棄することなど考えも及ばぬこ
とじゃ」
「太閤秀吉公ならばそのようなことなど、朝飯前にできることではござらぬか」
「おこがましいが拙者が毛利の盾になろうと決心したのだ」「実家に秀俊公が入れば、自ら種姓が絶
えてしまうことが必定のこと。かえすがえす忍び難い」「秀俊公を拙者の世嗣とすることで、太閤殿の
承諾をなんとしても取りつけることだ」
「秀包殿を養嗣子にすでに、隆景殿もすえおいてござらぬか」
「かまわぬ。それは拙者が考えればよいこと。いまは宗家の安泰を願う策を練っているところ。おぬ
しがどう言おうが考えを変えるつもりはござらぬぞ」
「かたじけない。かたじけない」と、輝元は頭を垂れてくりかえした。
「渡海で拙者の精気もつかい果したので、余病が出るかも知れぬ。太閤殿から封じられた筑前・筑
後の国とも豊臣家の直轄地。ゆえに秀俊殿を迎えることで豊臣家に返還できるというもの」
「妙案であろうが・・・。拙者は旧領の三原にさがればよい」
「隠居などまだ早すぎまするぞ」
「自分が一番よくわかっておるわい。決めたぞ。決めるぞ」
「よろしくお頼み申します」と輝元は大粒の涙を頬につたわらせて、隆景の両手をきつく握った。
 隆景は養子の秀包を分家の扱いにして、今度も仲介役を恵瓊に頼むことにした。


 秀吉はこの申し立てに異論を述べず、はっきりと了解したことが隆景のもとに報告が届いた。それ
を聞いた隆景は実家が安泰を保てることが出来たことを、ことの他喜び、感涙にむせた。
 さらに秀俊を迎えるのと同時に、婚儀の礼も同時に執り行うことになった。秀俊に妻合わせられた
相手は毛利輝元夫人の姪である宍戸元秀の娘であった。
 秀俊は「胡乱うらん第一の人」というもっぱらの風評だった。だが隆景の第一印象は、神経質のな
かに人なつっこいところが垣間見えて、うわさはうわさだけのものよと直感的に感じ、自分としては
我が子同然に盛り立てていこうと自分に言い聞かせた。

 文禄3年(1594)11月13日に、秀俊を隆景の居城である備後三原に迎えて盛大な祝言の式が
催され、親子の契りを結んだ。秀俊13歳であった。式には毛利輝元はもちろん恵瓊も招待されてい
る。
 翌文禄4年に入ると秀吉から隠居料として、三原三万石が与えられたので、秀俊には筑前の名島
城を譲った格好にして、自分は隠退したが城主としては二年後の亡くなるまでつづく。


 文禄3年4月には伏見城が出来上がっている。そもそもこの伏見城は秀吉の隠居のために築城を
はじめた。聚楽第は関白の政庁として造られたものであるから、自分の隠居城を造り始めたが、文
禄2年に拾(のちの秀頼)が生まれたために、拾にその城を与えることとしたので、途中から伏見城
の規模も大きく変更されている。
 翌文禄4年3月茶々は拾とともに伏見城へ入った。

 秀吉は秀次の追い落としの手をいく手ものばしていた。


[小早川秀秋2]へ続く


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