備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就8「備後経略」


 毛利元就の領国拡張策を見ると、大別して二つの方法があるということがわかる。
 一つは国人領主を盟約のかたちで自分の陣営に引き入れ、最初は一揆契約という対等な立場で
あるが、次第にこれを自分の支配下に組み入れていく。
 もう一つは一揆契約に応じぬ国人領主を、武力で自分の膝下に組み敷いてしまうという方法であ
る。
 一揆契約で他の国人領主と盟約を結ぶ場合には、安芸の国人衆の間で古くから用いられた傘(か
らかさ)連判状を使用した。

 大内氏が天文12年(1543)5月に、出雲で手痛い打撃を受けて敗退したと知ると、吉田郡山合
戦の勝報で大内方へ転じていた芸備の国人領主は、またもや尼子方に鞍替えを始めた。
 まず備後で備南最大の勢力を持っていた神辺城主の山名(杉原)理興(ただおき)(先の富田月山
城攻めで裏切った国人衆十三人の一人)が、その出雲遠征で当主を失った小早川氏へ攻撃をかけ
た。
 芸備の国境に近い沼田川流域に本拠を置く安芸の沼田小早川氏は、当主正平が大内義隆に従
軍して出雲で戦い、元就と共に大内軍の殿をつとめて宍道湖沿いに敗走した。
 ところが平田から美談へ抜けようとして鳶巣川へ来たところを、渡河の途中、土一揆に襲われて惨
殺されてしまった。

 山名理興は、出雲遠征の敗北で動揺している大内氏の間隙を衝いて、この小早川氏を攻撃の目
標に選んだのである。
 山名勢は、早くも同年の6月に小早川領の椋梨に来襲して、その後もたびたび軍勢を西下させた
ので、元就は自ら出馬してこれを撃退した。
 そして大内軍の弘中隆兼と協力して、この年の暮に山名理興の居城神辺城を攻撃したが、これを
落とすことはできなかった。
 この後、足かけ7年にも及ぶ神辺合戦が展開された。詳しくは過去の記事「神辺城の歴史」を参照
して下さい。

こちら http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page005.html


 尼子氏の軍勢はこの山名氏の動きを支援するために、同年10月南下しようとして毛利軍に撃退
されたが、翌天文13年3月になると、またもや備後甲奴郡の田総に進出して毛利軍と戦った。
 同年7月尼子晴久は、今度は新宮党の国久・誠久・敬久らを主力として将兵七千を率い、備後の
布野(布野村)へ侵入してきた。大内陣営にあった三次比叡尾城主の三吉広隆を攻めようとしたの
である。
 元就はこのとき福原貞俊と児玉就忠の両将に千余騎を率いて救援に赴かせたが、一時は手痛い
敗北を喫している。
 三吉広隆の奮戦でどうやら尼子軍を撃退することができたが、尼子軍は性懲りもなく今度は10月
に沼田高山城まで南下して、小早川氏を攻撃している。
 こうして、尼子軍の支援をことごとく毛利軍によって邪魔された山名理興は、最後には神辺城に孤
立したが、その抵抗はしぶとく、山名理興が出雲富田城を頼って神辺城からひそかに脱出したの
は、天文18年9月4日のことであった。

 のち山名理興は元就に詫びを入れ、毛利軍に属した。

 さて元就による備後経略だが、彼はこれをできるだけ一揆契約によって実現している。
 元就の襲封当時、芸備両国には毛利氏と肩を並べる国人領主は、それぞれ十数家も存在してい
た。
 これをいちいち武力で討伐していたのでは身がもたない。
 これは先代からの政策で、たとえば永正9年(1512)10月に、備後の山内氏と木梨杉原氏との
間に衝突が起こったとき、毛利氏は沼田小早川氏と一緒に調停に立って和解の契約を結び、永正
末年には上山実広・敷名亮秀・吉原通親などの豪族と一揆契約を結んでいる。
 さらに大永7年(1527)には備後和智郷の和智豊郷とも一揆契約を交わし、天文22年(1553)
には、4月に三吉氏、12月には山内隆通と一揆契約を結ぶ。

 しかし一方、備後品治郡の亀寿山城に拠る宮氏に対しては武力討伐をもってのぞみ、天文3年(1
534)7月、宮直信を攻撃して、その死後嫡子元盛を降伏させている。
 宮氏の一族は備後の各地に勢力を伸ばし、西城の大富山城に久代(くしろ)宮氏、東城の小奴可
城には小奴可宮氏や志川滝山城の宮光音らがいた。
 元就はこのうち久代宮氏と小奴可宮氏は武力を加えずして服属させたが、備後石成荘に本拠を置
いた宮光音については、尼子晴久と組んで毛利氏に反抗したため、天文21年7月に、これを志川
滝山城(福山市加茂町)に攻めて滅ぼしている。

 亀寿山城宮氏については過去記事「相方城の歴史」を参照してください。


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