備後歴史雑学 

幕末剣心伝33「天然理心流・土方歳三15」


 榎本は歳三と相談し、なぐり込み艦隊を編成した。回天丸・蟠竜丸・高雄丸の三艦をもって決
行し、旗艦回天丸に荒井と歳三を乗りこませる。艦長は古強者の甲賀源吾。


「アボルダージュ作戦」

 アボルダージュとは接舷攻撃のことを言い、甲鉄艦のストーンウオール・ジャクソン号に乗り込み奪
取しようという作戦である。
 歳三は、なぐり込みの陸兵を選抜した。当然のことながら、新選組の旧隊士が多かった。野村利
三郎・相馬主計・島田魁らである。歳三は大半を高雄丸に乗せ、その指揮は島田に任せた。
 高雄丸は陸兵の輸送にあたり、回天丸と蟠竜丸は敵艦の攻撃にあたる。問題は、敵がいつ宮古
湾に入ってくるかであった。

 明治二年(1869)3月9日、甲鉄艦は七隻を率いて品川を出た。このうち四隻は輸送船である。
 榎本は翌10日に、電信によって横浜から箱館へ連絡が届き、この報告をうけた。これはイギリス
商館の者によってである。彼らはどっちが勝ってもいいように二股をかけていたのである。
 榎本は歳三を呼んだ。
「敵が宮古に入るのは、17日か18日でしょう。天候にもよるが補給のために、少なくとも3日は停泊
するはずです」「では、いつこちらを出ればよいですか」
「2日で行ける。18日箱館出港で間に合います」「わかりました」

 なぐり込み艦隊が箱館を出発したのは3月20日の真夜中だった。予定よりも2日遅れである。
「土方さん、お知らせしたいことがある」と艦長の甲賀が足早に近寄って来た。「何です?」
「宮古まで2日では無理であることがはっきりしました。本艦だけなら行けるのですが、高雄丸の船
足が試算よりもかなり遅いのです。襲撃隊の人員を乗せ過ぎたためかと思われます」
「宮古へ着くのはいつごろになりそうかね?」
「このまま順調に三艦が航海できるとして、23日の昼ごろでしょう」
「昼ではまずいな。襲撃は夜明けがいい」
「では、南部領の大津港に寄って時間を遅らせましょう」
「甲賀さん、万事お任せする。敵艦隊まで運んでくれれば、あとは私がやる」と歳三はいった。
 しかし、22の夜から風が強くなり、24日の朝まで吹きまくった。三艦はちりぢりになったが、大津で
落ち合うことにしていたので、回天丸は米国旗を掲げて大津に入った。
 間もなく高雄丸が英国旗を掲げて入ってきた。
 歳三は荒井・甲賀と相談し、蟠竜丸を夕方まで待っても来ない時は、二艦をもって宮古へ向かうこ
とにした。日が、無為に暮れた。
「行きましょう」と歳三はいった。荒井はうなずき、甲賀に出港を命じた。
 そのあと、不運な出来事が起きた。高雄丸の補助機関に故障が生じたのだ。
「かまわない。回天だけでやりましょう」と歳三はいった。

 箱館を出る前に入手した情報では、敵は甲鉄艦を旗艦に八隻なのだ。八対一である。それに襲撃
隊の主力を高雄丸に乗せたので、回天丸に乗り組んでいる陸兵は約百名なのである。
 歳三の悠揚とした態度を見ていると、荒井も甲賀もむしろ勝てるという気がしていた。
 夜明け前、回天丸は宮古湾口に達した。しばらく待ったが、僚はついに現れなかった。
 甲賀は米国旗の掲揚を命じてから、回天丸を湾内に入れた。
「土方さん、うまくいきそうです。敵は眠りこけている。その証拠に煙突から煙が出ていない」
「なるほど」歳三は、様式士官服に帯を巻き、長刀を差しさらに小銃を持っている。
 回天丸はスルスルと甲鉄艦に近寄って行き、米国旗を日の丸に変えるや否や、十三門の砲を甲
鉄艦に向けてぶっ放した。
 全弾、ほとんど命中したが、全てその装甲でハネ返されていた。
 甲賀は舵を右に切り、さらに左に切りかえた。回天丸の右舷と甲鉄艦の左舷を平行にして接しよう
としたのだが、回天丸の舵は左への利きが悪かった。甲賀も心得ていたが、肝心なときにその癖が
いっそうひどくなった。
「ドスン」と音がして、回天丸の船首が甲鉄艦の左舷に突き刺さる形で入った。横付けになるものと
思っていた陸兵たちは、右舷に集中していた。
 歳三は艦橋を仰いだ。甲賀がいったん後退させようとしている。甲鉄艦上に敵兵が飛び出してき
た。歳三は小銃を構えて撃った。
「艦長、このままでいい」歳三は大声で叫び、
「船首から飛び移れ!」と怒鳴ると同時に、自分も走った。

 船首の近くにいた大塚波次郎という旧幕臣が、「先頭!」と怒号して甲鉄艦に飛び乗った。という
よりも、落ちた。回天丸の方が甲鉄艦より一丈(3メートル)も高かったのである。
 続いて「二番!」と怒号して野村が飛び下りた。「やるな」歳三も微笑して飛び下りた。
 敵兵は甲板から船室に退き、いっせいに撃ってきた。歳三はそれを撃ち返しながら、
「縄を下ろせ」と回天丸の乗組員に怒鳴った。飛び下りた者のなかに足をくじいた者がおり、うずくま
っていた。それを目がけて甲鉄艦のガットリング砲が火をふきはじめていた。
 甲鉄艦上の戦闘は、歳三の意に反して射撃戦になった。そうなると銃の数がものをいう。歳三の
見たところ、飛び下りてきたのは約30名である。これでは劣勢だが、回天丸に残った者が甲板の高
さを利用して撃ちまくるので、何とか支えている形だった。
 しかし、厄介なのはガットリング砲である。(あいつを始末できれば、こっちのものだが・・・)

 この間、回天丸の砲は、近くに停泊している官軍の飛竜丸・戊辰丸めがけて撃ちまくった。官軍側
で反撃したのは、のちの元帥東郷平八郎が砲術士官として乗り組んでいた春日丸だけであった。
 その一弾が回天丸の艦橋近くに落ち、飛びはねた弾片が甲賀の左足をえぐった。甲賀はすぐに起
き上がり、なおも指揮をとり続けた。
 歳三は回天丸を振り仰いだ。甲賀はガットリング砲の砲火を一身に受けようとするかのように、艦
橋で仁王立ちになっている。
 その目が歳三の目と合った。「引き揚げなされ」というように甲賀は手を振った。歳三はその悲壮
な姿を見て、この勇敢有能な艦長の真意を悟った。自分を標的にして、なぐり込みをかけた陸兵を戻
そうとしているのであろう。
 甲鉄艦の甲板は、死屍累々であった。どちらかといえば味方が多い。
 (どうやら汐時だな)と歳三は判断した。このままでは全滅しかねない。
「よし戻れ」歳三は号令をかけた。
 回天丸から垂らされた綱をよじ登って帰還したのは十数名だった。そして艦長の甲賀源吾は右
腕、顎を射抜かれて戦死していた。
 艦の指揮は荒井が執った。全速力で宮古湾を出てから損害を調べてみると、戦死19名、負傷30
名だった。戦死のなかには、野村利三郎も含まれていた。
 官軍の損害は戦死6名、負傷20名、行方不明14名だった。海に落ちたまま死体が見つからなか
ったのだ。官軍がいかに狼狽したかである。

 回天丸は北上した。途中で蟠竜丸に出合い共に箱館へ向かった。
 不運なのは、はぐれた高雄丸であった。回天丸が去った二時間後に出港してきた官軍の甲鉄・春
日・丁卯・陽春の四艦に発見された。
 高雄丸は北へ逃げたが、速力が比べものにならなかった。艦長の古川節蔵は高雄丸を浅瀬に乗
り上げ、乗組員、陸兵とともに火を放ってから逃げた。地名は壇之浦というところだった。
 結局、この月の29日に大半の者は南部藩に降伏するのだが、一部の陸兵と乗組員は漁船を奪っ
て箱館に戻った。そのなかに島田魁がいる。
 歳三が島田と再会したのは、4月3日だった。近藤と別れてちょうど一年たっていた。
「よくぞ戻った」歳三は島田の手を握りしめた。
「土方さん、いや、副長」島田が声をつまらせていい、
「もう会えないか、と思っていた」と歳三はいった。心の底からの言葉だった。
「そう簡単には死にませんよ。それより、敵の動静について小耳にしたことがあります。総督が清水
谷、参謀が薩摩の黒田了介、および長州の山田市之允で、約三千五百名が青森に勢揃いしている
そうです」
「さすがに島田君は抜け目がないな」
「ただ逃げ帰っただけでは、副長にどやされますからね」
 歳三は微笑した。京都以来の隊士としては、島田のほかに負傷した相馬ら数名になっていた。





ガットリング砲:機関銃の前身で一分間に数十発を撃てた。


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