備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就7「出雲遠征」

無残な逃避行となった出雲遠征

 天文10年(1541)正月に尼子軍が安芸遠征に失敗したという知らせが伝わると、たちまち安芸・
備後の情勢が一変した。
 またこの年の11月13日、尼子経久が死去した。経久が偉大であっただけに、その死は尼子家中
に衝撃を与えた。
 それまで日和見をきめこんでいた国人衆はもとより、尼子氏の傘下にあった国人領主までもが、尼
子氏を見限って大内軍の陣営に集まった。
 そして、備後・安芸・出雲・石見の主要国人衆十三人が連署状をつくって大内氏に尼子退治を慫
慂してきた。
 備後の三吉・山内・高野山・杉原、出雲の三沢・三刀屋・川津・宍道・古志、石見の本庄・福屋・出
羽の各氏であるが、驚いたことに、吉田郡山合戦では尼子軍に加わって激しく毛利氏を攻めたてて
いた安芸の吉川氏もこれに連署しているのである。

 この十三人の慫慂に乗って、すぐさま出雲遠征積極論を主張したのが陶隆房であった。
 これに対して相良武任・冷泉隆豊といった文治派の側近グループは、「時期尚早」とこれに反対し
たが、若い大内家当主義隆は賑やかな武断派の意見に惑わされて出兵に踏み切った。
 天文11年正月11日、大内義隆は嫡子義房と譜代の重臣陶隆房以下、一万五千の軍勢を率いて
山口を進発した。
 出陣の催促は大内氏の一部将である毛利元就の元にも届いた。元就この時46歳。武将として一
番脂が乗っている時であった。


 二ヶ月程かけて瀬戸山城を陥落させた後、由木に滞陣。
 10月中旬、三刀屋から宍道湖畔に進攻。11月に馬潟(松江市)に本陣を移して年を越した。
 本隊に安芸・備後・石見・出雲の国人衆を加えた大内軍は三万にも膨れあがっていた。
 正月の20日尼子氏の本拠、富田月山城を攻めるための軍議が開かれた。
「方々、苦しゅうない。存念を述べられよ」
「恐れながら」「おお、戦巧者として名高き毛利元就殿か」
「有り難きお言葉、恐悦至極。されば富田月山城は天下の名城。しかも籠もるのは尼子の精鋭一万
数千。力攻めは無理かと存じまする。遵いまして、本陣はこのままに置き、泊州口から進攻する行
松・南条の両氏と共に、包囲網を強化して圧力をかけ、間断ない調略を行い、内応者を作った後で
攻撃をかけるのが、良策かと存ずる」
「毛利殿の案、某は反対でござる」
「陶か。申せ、申してみよ」
「数の利を活かさずして、何の戦でしょうや。某は一気に攻め潰すことが最善の策かと」
 反論しようとした元就を無視して、大内義隆が決定を告げた。
「これにて決した。一気に攻めるぞ」

 元就の危惧は現実のものとなった。富田月山城は要害でなかなか攻めきれない。
 特に戦のないまま日が過ぎていく。味方に蔓延する厭戦気分。こんな時は調略に最も気をつけな
ければならない。

 異変が起こった。
「安芸・出雲・石見・備後の国人衆、謀反」
 尼子方から離反した国人衆十三人が、揃って富田城内に逃げ込んでしまったのである。
 遅々として進まない包囲戦にいらだち、義隆の武将としての器量に不審を抱いた結果であろう。
 こうなっては、尼子方の反撃が怖い。


 大内軍は撤退を余儀なくされた。殿を受け持つのは、毛利氏をはじめとする安芸の国人衆である。
 八幡山の宮ノ尾に布陣していた元就は、大内義隆の撤退を見届けた後、退却を始めた。
 尼子軍の対応はさすがに早く、執拗な追尾に悩まされたうえ、一揆勢の待ち伏せで、毛利勢は従
軍した兵のほとんどを失い、危うく逃れた元就は、石見国安濃郡波根に潜んだ後、安芸吉田へと駆
けた。
しかし、ここでも伏兵にあい、大江坂の七曲がりに追いつめられてしまった。

 元就が嫡男の隆元と共に自刃を覚悟したとき、その元就の甲冑と乗馬を貰い受けて身代わりとな
ったのが、渡辺太郎左衛門通であった。
(渡辺通。一連の粛清の際に殺した渡辺勝の子である。備後の山内家で成人した後、山内家の口
ききで毛利へ帰参した)
 この渡辺通が身代わりになると申し出たのだ。すべての恨みを水に流して。
 渡辺通は従者六人と共に、元就らが逃げて行く矢滝道とは反対の西田の方へ敵勢をおびき寄
せ、温泉津まで逃げて(七騎坂の地名が残っている)全員壮烈な討ち死にを遂げた。
 七騎の犠牲によって九死に一生を得た元就は「独立」の思いを益々強くした。


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