備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就6「郡山合戦」後半戦!

智将元就、尼子軍を破る!

 元就自らの陣頭指揮によって、「青山土取場の合戦」に毛利軍は大勝した。
 その後、11月に尼子方の武田信実と毛利勢の般若谷の戦。22日瀬木・室坂の戦い。23日小
山・河井、26日相合などで小合戦が続いた。

 すでに元就は大内氏の来援を懇請していた。
 大内氏は陶隆房(のち晴賢)・杉重政・内藤興盛の諸将を救援のため派遣することとした。
 26日、援軍は防・長・豊・筑の兵一万余を率いて山口を出発した。

 厳島神社に参拝し戦勝を祈願し、海路海田(海田町)に上陸。中郡大道を北行し、12月3日郡山
の東南方、山田中山(甲田町上小原)に着陣した。
 そして毛利・尼子両軍が対陣している郡山・青光山・郡山城下が一望に見下される住吉山に軍旗
を立て、陣太鼓を打ち鳴らし、大いに武威を示した。


 大内方の優勢な援軍をみて毛利方の士気が百倍したのに反し、尼子軍はただでさえ連日の敗北
に、秋風落莫の感があり、ましてや兵員が多く食料補給、寒冷の期を迎えるとあって、士気は俄か
に沮喪してほとんど戦うべき気力さえも失ってしまった。
 元就は大内義隆の厚誼に対し、国司元武・粟屋元良を使者として大内軍を労い謝意を述べ、さら
に井上三郎を接伴使として隆房の軍営に遣わし、懇切に饗応させた。
 隆房もまた答礼として柿並佐渡守を郡山城に派遣し、明年雪が融けるのを待って大いに戦うことを
元就と打ち合わせた。
 この後、翌天文10年(1541)正月13日の大会戦が行われるまでは、とくに著しい戦闘もなかっ
たが、12月16日、翌10年正月3日、6日と三回小衝突があった。


 「一大決戦」

 天文10年正月11日、大内軍の陶隆房は元就の希望を入れて、いよいよ尼子軍の陣に迫るべく
山田中山の陣を撤去し、本営を郡山城北の尾根つづきの天神山に移した。尼子軍はこれを阻止し
ようとしたが、目的は達し得なかった。
 翌12日、元就は児玉三郎右衛門就忠を使者として、天神山の大内軍の本営に派遣し、
「我が軍はいよいよ明13日を期して、尼子軍と最後の大決戦を行い、勝敗を一挙に決したいと思
う。まず宮崎長尾に屯営している尼子軍の高尾・黒正・吉川らを襲撃する予定である。尼子軍がこれ
を見ると、必ず青光山の本営から援兵を繰り出すであろうから、大内軍は援兵を出してこれを牽制し
ていただきたい」と依頼した。
 隆房はこれを了承し、末富志摩守を郡山城に派遣して応諾の旨を通じさせた。
 元就は城内の満願寺で志摩守と軍議を凝らし、謀を授けて還らせた。

 13日の払暁、元就は城中の精鋭三千余を統率し、小早川興景及び宍戸元源の兵と策応して猛
然と宮崎長尾の敵営に肉薄した。
 この日どうゆう考えか元就は鎧を着けず、ただ樺色の小袖を纏い悠然として床几に腰を掛け、遙
かに敵陣を見渡していた。
 そこへ今年12歳の次男少輔次郎(のち吉川元春)が進み出て、ひたすら軍に従うことを請うた。
 元就は、一旦はこれを止めようとしたが聞かぬため、ついにその大胆さを喜び従軍を許した。
 これが元春の初陣でもあり、逸話として広く知られているのはこの時のことである。

 また、この度の戦は城中の勢を尽くしての戦であるから種々の偽兵を作り、竹や棒切れの先に金
紙・銀紙などを張らせ、あるいは金扇銀扇などを結びつけさせ、女子供に至るまで城の壁際まで出
て並ばせた。
 遠目にはいかにも屈強の武士がたくさんいるがごとく見せたのである。


 宮崎長尾の陣では、いよいよ元就が攻めて来ることを知り、堅固に三段の陣を構えた。
 先鋒高尾豊前守は、二千の兵を指揮して一旦柵外に出たが、防戦することが出来ず、空しく左右
の谷に敗走した。
 二陣の黒正甚兵衛も、千五百の兵を引率して高尾勢に代わって対抗したが、毛利軍の勢いを止
められず敗走した。
 毛利軍は躍進し、後陣に控えた吉川興経の軍と交戦することになった。
 興経は豪勇の士で、部下千人の将卒も精頸無比の誉れがある上、陣地の防備も頗る厳重であっ
た。
 毛利軍も奮闘勇戦大いに努めたが、ついに柵内に突入することが出来ず、勝敗は容易に決せぬ
まま日没にいたった。
 毛利軍は敵将三沢蔵人・高尾豊前守等二百余人を斬ったことを評価して、敵陣に放火して凱旋し
た。


 毛利軍が宮崎長尾攻撃の際、天神山に駐屯していた大内軍は、元就の依嘱で郡山城後詰の任
に当たっていたが、尼子軍が攻め寄せる形勢もなく戦機も熟したので、
「もはや徒に尼子軍の牽制をもって甘んずべきでない」と、ついに天神山の営を出て詮久の本営青
山三塚を襲撃することにした。
 天神山と青光山との間には多治比川があり、尼子軍の一部隊がこの河畔に駐屯していた。
 これを知った大内軍はその方面を避けて、南に大きく迂回して青山の背後から尼子軍の屯営を襲
って肉薄した。
 尼子軍本営では、各方面に援軍を繰り出していたため兵数が少なくなっていた。そこを大内軍が
襲ったのである。
 本営の将兵の狼狽混乱ぶりは名状できぬ状態になり、詮久も殆ど危うくなった。

 このとき、平素沈着寡黙で思慮深い尼子下野守久幸は決然起って進み出で、
「いざ、この臆病者の壮烈な最後をみて奮起努力せよ」と言い放つや、緋縅の鎧に身を堅め、赤色
の鉢巻き凛々しく手勢五百引き具して、まっしぐらに光井の坂を打って出た。
 大内勢は既に山の中腹以上に攻め上がっていたが、久幸の突進が物凄く、両軍はここで衝突し
大激戦となった。
 そのさなか、毛利軍の将中原善右衛門が宮崎長尾の合戦を終え、大内勢の合戦の有様を視るた
め、小高い丘に登ってきた。
 尼子久幸が真っ先に進み出て戦っているのを見た善右衛門は、
「よき敵なれ」と直ちに大雁股の矢を番えて、側面からこれを射た。
 矢は過たず、久幸の眉はずれに命中し、沈毅勇武の名将もついに討死するに至った。
 その間に、山麓にいた尼子軍が急を聞いて来集したので、詮久は辛うじて虎口を脱することがで
きたのである。
 両軍は互いに一進一退し交戦数度に及んだが、ついに最後の勝敗を決するに至らぬままに日没
となり互いに退陣した。


 この日の激戦で尼子方四百余人、大内方四百七十人の戦死者をだした。[吉田物語]
 この夜、詮久は一族郎党をはじめ幕僚を本営に召集し、その善後策を協議した。
 詮久が大軍を率いて屯営して以来五カ月、その間何度かの戦闘を交えながら概ね敗北し、多数の
将兵を失った。
 しかも大寒の中で氷雪を冒して異郷の山地に滞陣する困苦は、軍需品・糧食等の徴発、輸送・配
給の不便と相まって更に深刻となった。
 今はただ万全の策として残兵を完全に収容して、夜陰に乗じて即時撤退を開始し、本国に帰還あ
るのみ・・・ということに一決した。
 そこで特に篝火をたいて防備厳重のように装い、残兵を糾合して北の生田方面に逃げ去った。
 これを知った毛利軍は、猛烈に追跡したが積雪に阻まれ、目的を達することができなかった。

 以上が小勢で多勢を翻弄、尼子三万の大軍を敗退させた「郡山総籠城戦」の顛末を記しました。


トップへ戻る     戻る     次へ



inserted by FC2 system