備後歴史雑学 

[備中高松城]
種別:平城

 備中高松城は、天正年間(1573)より前、備中松山城城主三村元親の重臣石川左衛門尉久孝
によって築城された。
 石川氏はもともと幸山城(都窪郡山手村西部)城主として、この地方の旗頭として栄えていた。久
孝は当時注目されてきた新兵器、鉄砲に対処するために新城を築いたのが、この高松城である。
 また、この城は天然の地形を活用した最新式の城で、さすがの百戦錬磨の秀吉も堅城のため攻
めあぐんだ。
 この城は周囲が大沼で囲まれており、具足をつけて辛うじて行き違うことが出来る細い道が一本
城へ入る道があるだけである。南の大手口には深い八反堀があり、長さ三十五間(約63メートル)
の仮設的船橋をかけて、いざという時にはいつでも撤去できるようにしてあった。
 北の和井元口には、弁天島を中央にしてその北の橋は撤去してあった。西沼には、幅三間(約5
メートル)に三十間(約54メートル)の押出し式の橋がかけられ、出し入れは自由にできる構造にな
っていた。

 石川久孝は備中高松城を創建して居住し、近郡に勢力をひろげていた。清水長左衛門尉宗治は
この久孝に仕えていて、久孝は宗治の力量を信じ娘を嫁にやり、幸山城をまもらせた。
 清水家の系譜は不詳な点が多いが、恒武平氏の出自で平清盛の信頼を受け、御家人として源平
合戦の頃活躍した備前の豪雄難波次郎経遠の子孫ともいわれる。宗治の父、元周家は、備中国賀
陽郡清水村(総社市)の幸山城主であった。元周家には、長男の宗知(のち月清)と次男の宗治の
二人の男子がいた。宗治は天文6年(1537)生まれ、幼名を才太郎という。
 石川久孝は病死したが、嫡子久式と三村元親が毛利氏に滅ぼされると、毛利氏は久孝の女婿で
高松城西南約二里の幸山城主であった清水長左衛門尉宗治を、小早川隆景の配下に入れて備中
高松城の守将とした。
 天正6年(1578)4月、毛利氏は播州上月城を攻めた時、宗治は隆景配下の武将として従軍し軍
功をたてた。隆景は、宗治のいままでの勲功から信頼し、備中奥郡を支配するよう命じた。毛利氏
はこの奥郡の押さえとして、穂田元清を猿掛城に入城させた。


高松城跡にある案内板


高松城の案内板にある全景想定図のアップ


高松城の案内板にある本丸想定図のアップ


南より見た本丸跡


西より見た本丸跡


本丸から見た東側・高松最上稲荷の鳥居が見えています

[備中高松城の水攻め]
 天正7年(1579)秋、宇喜多直家は羽柴秀吉の仲介で織田信長の配下に入った。この直家の毛
利離反に対し、小早川隆景は大変怒り備前への侵攻をしたが、直家を倒すことはできなかった。羽
柴秀吉の西進には備前勢を加えた連合軍で、毛利領の備中国に乱入する危機が迫っていた。
 そこで、毛利氏の山陽道総司令官小早川隆景は、備前国境に近い所にあった七城を堅固にする
施設などを整備し、城主や城兵も強化した。国境七城は別々なものでなく、中心的な高松城を本拠
にその周囲に六城をおくようにした。
 北から@宮路山城:主将乃美元信・400余人、A冠山城:主将林重真・300余人、B高松城:主
将清水宗治・五千余人、C鴨庄城(加茂城):主将桂広繁・約一千人、D日幡城:主将日幡景親と
上原元祐・約一千人、E庭瀬城:主将井上豊後守有景と桂景信・約一千人、F松島城:主将梨羽中
務丞景連・800余人。


国境七城配置図

 天正9年(1581)秋、因州鳥取城を落とした秀吉は、姫路に帰城して直ちに信長に戦況報告する
ため安土城に行き、中国征伐の準備を命じられた。秀吉は堺商人に中・四国の食料を買い占めさ
せた。
 こうした秀吉の動きに対して、小早川隆景は天正10年正月、御年始に備後三原城に備中高松城
主清水宗治以下七城主を召集して、、御馳走の後、隆景は各城主に一振りの太刀を与え、羽柴秀
吉の中国征伐の近いことと秀吉の甘言戦術を注意した。各城主は戦捷をすると言ったが、宗治は
「秀吉の大軍に勝てるとは考えられない。拝領の太刀をもって防戦し、力尽き城を枕に討死すると
き、この太刀で切腹します」と言った。
 隆景は「そうだ、その心で善戦してくれ」と宗治に更に御酒をついだという。宗治の性格が冷静・正
確に物事に処することを証明している。
 
 天正10年4月羽柴秀吉は、主君信長の誓紙を宗治に送って、内応すれば備中か備後を与えると
誘ったが、宗治はこれを拒否した。宗治が拒否した理由の一つに四年前、毛利氏が播州上月城を
攻めた時、宗治も隆景の部将として参戦していた。その留守中に、当時八歳であった嫡男の源三郎
が秀吉方に誘拐されたという知らせが届いた。そこで隆景は、宗治に「心配であろうから、一刻も早
く帰って子を取り返すがよかろう」といった。戦陣中のことで、宗治は感激して急ぎ高松城に帰り、首
尾よく源三郎を取り戻すことができた。隆景の厚恩が心に強く焼きつき、絶対に主君隆景に忠誠を
誓っていたからである。

 天正10年3月15日、羽柴秀吉は全軍二万余の大軍勢を率いて姫路城を進発し、3月19日沼城
に到着した。この城で岡山の宇喜多氏の動向を調査し4月4日、秀吉は宇喜多氏の本拠石山城へ
入城した。このとき「備前太閤」といわれた宇喜多直家はすでに死亡し、その嫡男八郎(秀家)が幼
少であったので、叔父の浮田忠家が後見役としてすべてのことを代行していた。
 秀吉は入城の翌日、宇喜多氏の重臣たちと作戦計画を練った。秀吉はまず、得意の無血で城盗
りををする文書による懐柔策を展開することにした。
 4月5日、秀吉の家臣蜂須賀正勝と黒田官兵衛尉孝高の二人は、吉備津宮の神宮堀部掃部に、
「織田信長誓紙」を高松城内へ持参することを頼んだ。その誓紙の内容は、次のようなものであっ
た。
 今度、西国成敗のため同姓次丸(織田秀勝)、羽柴筑前守を差し下し候。清水長左衛門(宗治)・
 中島大炊助(元行)は正兵仁義の勇士と多年聞き及びたり。此度備中・備後を両人へ宛行うべし。
 毛利家に背き、筑前守と申し談じ、西国の導きたるべし。委細は筑前守申し談ずべきなり。前書の
 通り、偽るにおいては日本国中大小神祗、殊に宇佐八幡大神宮、天満大自在天神の御罰を蒙る
 べきものなり。件の如し。
    三月八日                                           信長御判
     清水長左衛門殿
     中島 大炊助 殿                                 「中国兵乱記」より
 この信長誓紙に対して、清水・中島両者は「信長公の御意に従いたいところでありますが、長年毛
利家に随い、天下の境目の守護を頼まれています。毛利家に背き、西国攻略の先鋒を勤めること
は、死んでも死に切れない恥辱であります。両国を給わり栄華を誇ってみても、それでは世間に顔
向けができません。この旨をぜひ信長公にお伝え頂きたい」と書き留め、堀部掃部に渡した。蜂須
賀・黒田両使はだまって秀吉の陣屋に帰った。
 秀吉はこれを聞き再び両使をもって、秀吉の副状を送った。この秀吉の書状にも、丁重な辞退の
書状を出している。
 秀吉は他の城にも好条件の書状を送り、無条件で降服するように要求したが、いずれの城主も拒
否したが、日幡城と加茂城では効果があった。

 その秀吉の軍勢は「前野家文書」によると、
 一、先発(二千五百余人)蜂須賀正勝2300人、黒田官兵衛尉200余人。
 一、中備え(八千有余人)宇喜多左京亮5000有余人、宇喜多忠家・秀家3000余人。
 一、脇の備え(一万二千三百余人)羽柴小一郎4000有余人、荒木重堅・加藤光康3300余人、
                      浅野長政・前野忠康5000有余人。
 一、御本陣 羽柴秀吉、羽柴御次丸(織田秀勝)。
 一、後備え(千六百余人)杉原家次・木下昌利・三輪吉高。
 「右惣勢子二万七千五百有余人」とある。

 そこで羽柴秀吉は、秀吉・宇喜多連合軍二万七千余人を二手に分け、右翼隊を高松城の北方に
ある宮路山城(岡山市足守)と冠山城(岡山市下足守)の二城に、左翼隊を高松城の南にある加茂
城(鴨庄城、岡山市加茂)と日幡城(倉敷市日畑)に差し向けた。

 [備中宮路山城攻め]
 宮路山城には、乃見少輔七郎元信が城兵400余人で防衛していた。秀吉の家臣蜂須賀正勝と
黒田孝高の二人は、再三城主乃見元信に味方に加わるように話したが、その交渉は成立しなかっ
た。
 そこで秀吉は羽柴秀勝とともに、本陣を竜王山(岡山市高松稲荷)に置き、4月15日宮路山城を
攻めた。乃見元信は、城内の矢倉、狭間から弓・鉄砲を射て堅固に城を守り、防戦していた時、秀
吉から宇喜多氏家臣の信原内蔵允を使者にたて、城内へ入り和睦の交渉が行われた。その案内
者であった出丸の守将船木藤左衛門が信原氏に内通し、そして城内の兵を説得して宇喜多側に城
を開けた。城主元信は備後国の居城へ帰ったという。開城が5月2日で、18日の戦いであった。
 また、山上にあった宮路山城は水路を絶たれ、城主以下全城兵が夜逃げしたという。


宮路山城跡南より望む(この山下に足守陣屋が置かれ足守藩二万五千石木下氏十一代の治
世が続く):足守川を挟んで右が鍛冶屋山城跡(秀吉はここに入城し宮路山を攻めたという説
があります)

 [冠山城の激戦]
 この冠山城は、清水宗治の一党である林重真や松田盛明らと、竹井将監や舟木与五郎ら近辺の
武士300余の城兵が守っていた。浮田忠家は、この小城を侮り一挙に破ろうと総攻めした。しかし
城兵が鉄砲を間断なく撃ちかけてきたため、多くの死傷者を出し、入城どころか退却する羽目になっ
た。
 そこで秀吉の武将杉原七郎は策を講じ、鉄砲の火縄を柴垣にしかけた。この火が乾燥した柴に燃
え移り、さらにそばにあった藁屋に移り、見る見るうちに次々と家屋に火の手が上がりその猛煙が
広がっていった。城兵たちは突然の異変に防ぐ方法もなく、ただ騒ぐだけであった。
 秀吉は加藤虎之助(清正)を呼び、突入するよう命じた。虎之助は突入場所を探し、塀を乗り越え
一番乗りを果たした。続いて美濃部十郎次郎や杉原の家臣山下九蔵が名乗りをあげ、三人一緒に
攻め込んだ。すると、城兵20人ばかりが三人めがけて仕掛けてきたが、虎之助は十文字槍を自由
自在に振り回して戦った。
 他の二人も奮戦していたが、味方の軍勢が続々入ってきたので、城兵たちは城内に退いた。虎之
助らは城兵の後を追って寺坂口を乗り越え、城内に乱入していった。ところが、竹井将監は侵入して
きた秀吉方の兵をさんざんに討ち取った。
 これを見た虎之助は、豪勇竹井に戦いを挑んだ。両勇の一騎討ちはなかなか勝負がつかなかっ
た。虎之助はいらだち槍を捨て、太刀を抜き真っ向から斬りつけ竹井を討ち取った。この働きに対
し、秀吉は虎之助に感状を与えた。
 また竹井が戦っている際、秋山新四郎が竹井を助けようとしたが、山下と美濃部の槍に倒されて
しまった。
 城方は多勢に無勢であるうえに、城内の建物が炎上していて行動が自由にならず、次第に城兵の
数は少なくなっていった。
 城将林三郎左衛門重真は、宇喜多勢が城門を破って突入し、城兵は大混乱になった。その時、重
真はもうこれまでと南大手の櫓で切腹した。重真の家来139名もこのとき討死した。また、生き残っ
た城兵はほとんど捕えられた。[萩藩閥閲録]にも、(林三郎左衛門重真は天正10年4月25日、備
中冠山城にて切り候)とある。
 冠山城には、花房助兵衛・長船・福田ら侍大将がたてこもった。だが、小早川勢の侍大将楢崎忠
元が烈しく攻めかけてきた。冠山城は曲輪うちが残らず焼けており、防備が不完全であったのでつ
いに宇喜多勢は退却した。


冠山城跡南より望む:宮路山城と高松城の約中間に位置する

 [日幡城の攻防]
 羽柴・宇喜多勢は続いて日幡城を攻めた。城将日幡六郎兵衛景親は善戦したが、毛利家から派
遣された軍監上原元祐が秀吉に内通していた。
 4月11日ごろ、秀吉の密書が宇喜多氏の重臣花房助兵衛(職之)・戸川平右衛門(富川秀安)の
両名を通じて、日幡城の上原元祐に働きかけ、内応の約束をとっていた。
 このときの日幡城攻撃直前に、城内の上原元祐に出した秀吉の密書が残っており、わが国で見ら
れる二通のうちの一通とあり貴重な史料であるので、その内容を記しておきます。
 
 宗安相越し候あいだ、敬せしめ候。我等事備中の内へ乱入せしめ、かわやが上城(宮路山城)す
 くもつか(冠山城)両城取り巻き、一人も洩らさざる様に堀・塀・柵以下堅く申し付け、四方より仕寄
 り相責(攻)め候。きっと落去たるべく候。小早川当陣より五十町西、幸山(幸山城=都窪郡山手 
 村)に居陣の由に候。この方の者共毎日幸山の山下迄相越し、放火せしめ候へども、一人も罷り
 出ず候。両城打ち果し次第、幸山を取り巻くべく候。それに就き連々堅約の如く、この節に候条、 
 御色立て専一候。御一味中仰せ談ぜられ成るべき程、御てだて肝要候。このみぎり御手切れなく
 候はば、重ねて平均に申し付け候上は、入らざる事候。海上の事、塩飽・能島・来嶋人質を出し、
 城を相渡し、一篇せしめ候。次に東国の儀、甲州武田四郎(勝頼)首を刎られ、関東の事は申すに
 及ばず、奥州迄平均に仰せ付けられ、近日上様御馬を納められ、即ちやがて、この表へ御動座な
 らるべきの旨に候。然らば伯耆口よりも御人数遣わさるべく候条、きっとその表両口より馳せ向か
 うべき事程有るべからず候。早々御色立御油断有るべからず候。恐々謹言
  卯月廿四日                                          秀吉(花押)
                                         (資料提供/大坂城天守閣)
                                          (原本所蔵/米蟲剛石氏)
 この密書の頭に出てくる「宗安」は元祐の一族と思われ、密書所蔵の上原家では、宗安はこの使
者のとき僧に身をやつしたという伝承が残っている。

 [中国兵乱記]によると、元祐は城主日幡景親に逆心を勧めたが同心しなかった。むしろ、景親は
「貴方は毛利家から大変な御恩賞を頂かれ、御縁者の内にも加えられているのに、今逆意を起せ
ば、天罰を蒙り、先祖の名をけがし子孫に恥辱を与えることになる。残念なことだ」と、反対に元祐を
諌めたが聞き入れられなかった。そこで、景親は元祐を討ち果たそうと思って本丸へ行こうとした。
 これを、景親の弟の大森蔵人が先に元祐に密通したので、元祐の家来数十人が待ち受け、やっ
て来た景親を取り巻き、元祐が槍で討ち取った。そして、元祐は直ちに秀吉の軍勢を城内に引き入
れた。[備前軍記]によると、日幡城に入った秀吉勢は、宇喜多の花房・長船・市・福田の諸将と秀
吉勢から木村隼人を派遣して守らせた。
 しかし、身内の上原元祐の裏切りによる落城に怒った小早川隆景は、楢崎弾正忠正に大軍勢を
率いさせ猛攻を加えた。もともと堅固でなかったので、秀吉側は城を開けて引揚げた。

 上原元祐の先祖は和智氏で、永正年中(1504〜20)に、世羅郡上原(広島県世羅郡甲山町)を
本拠としてから上原氏を名乗るようになった一族である。そして毛利氏配下となり、備中平定に重要
な役割を果たしたといわれる。このため、毛利家中でも上原氏は重臣として扱われ、元祐は毛利元
就の娘を妻にもらっていた。
 日幡城で秀吉方に寝返った元祐に小早川隆景が怒り、早速城を取り返した原因の重要なものは、
元祐の妻が兄妹であり、隆景の義理の兄弟の裏切りということで、味方の動揺を押さえるためであ
ったと思われる。(相方城の有地宮氏の項参照)
 元祐の妻は助けられたが、敗れた元祐は城から脱出して京都に身をひそめたが、後に殺されたと
いう。

 [加茂城の奮戦]
 高松城から4キロメートルほど南に加茂城(鴨庄城)があった。この城には東の丸に加勢の生石中
務少輔と同藤四郎(元石川氏の家臣)が、西の丸には上山兵庫介元忠、本丸には毛利氏から派遣
された城将桂民部大輔広繁が秀吉勢の来攻に備えていた。
 秀吉は得意の戦術である攻撃せずに落城させる策をたて、宇喜多氏の重臣戸川平右衛門を使っ
て、東の丸の生石中務少輔に莫大な恩賞を与えるという甘言で味方にした。
 生石は宇喜多勢を東の丸に引き入れると、本丸の城将桂民部に使者を出し「私は秀吉公に味方
する。桂殿や上山殿は無事に岩崎山の毛利御陣へお送りするので、東の丸へおいでください」と降
伏を勧めた。だが、桂は「貴殿の裏切りは予想していたので驚かない。私は君恩のために戦う。この
城を攻め取って秀吉への土産にしなさい」と、この申し出を一蹴した。
 桂民部は毛利本陣へ急使を走らせ、援兵を求めた。民部の部下たちは東の丸にむかい、さかん
に弓鉄砲を撃ちこむ。さらに火矢を放って、東の丸の殿舎の藁屋根に射込み、火事をおこさせた。
 生石中務の家来たちは、屋根に登って懸命に消火する。桂の次男孫次郎が屋根に上がって鉄砲
で敵兵五人を撃ち落し、本丸の狭間からはさかんに狙撃して、多数の生石勢を撃ち倒す。
「いまじゃ、押しだせ」桂勢が門を開き東の丸へ襲いかかれば、東の丸に充満した宇喜多勢も押し
出して斬りあう。
 桂民部は400人ほどの軍兵を指揮して、必死の白兵戦をくりひろげた。宇喜多家中の沼木新五郎・
楢村五太夫ら、生石勢の村上・内藤ら、名のある侍が多数討ちとられ、宇喜多勢はついに東の丸か
ら城外へ後退した。
 桂民部は東の丸を制圧し、加茂城を確保した。

 [庭瀬城・松島城]
 毛利側の国境七城の最南端の守城が庭瀬城(撫川城)である。[吉備郡誌]には、備中高松城水
攻めのとき、「庭瀬城には城主井上豊後守有景、郷人ばらかけて八百ばかりにて籠城していた。こ
の城は岡山口は沼沢があって、一騎打ちしかできない細道が城に通ずる一本の道であった。蛙が
鼻の方も、一騎打ちしかできない細道であったので、敵勢は多人数の将兵一挙に城攻めすることが
不可能であった。秀吉勢は足軽を城攻めに参加させ、城の強弱をためしたが、城主井上豊後守は
自ら戦いの指揮を採り、武勇の誉れ高い武士を選んで敵の足軽にあてた。一騎打ちしかできないの
で足軽勢は近寄ることも侭ならない。城攻めの秀吉勢は大軍勢であったので、小早川隆景や吉川
元春より、庭瀬城は敵と戦うための城とは考えていないほどの施設しかないので、終始守り通すこ
とは困難である。だから急いで城を開いて退去するように命令した。けれども、城主井上豊後守は
主君の命令を聞きはしたが、命令にそむき、全く城を出ず防衛し、毛利・織田両軍の和睦の後まで
も在城していたという。
 松島城は、現在川崎医科大学のキャンパスのある所で、秀吉勢は中心的な高松城から遠く離れ
ているからか、全く攻めていない。


庭瀬城址の石碑から西に三〜四百メートルにある撫川城跡正面入口(南より見る)


撫川城跡(西より見る)右が正面入口です


庭瀬城跡の堀(西より見る)ポインターを当てると案内板が出ます
 撫川なつかわ城・庭瀬城は戦国時代、三村家親が本格的に撫川城を築き、備中兵乱後毛利氏の
手により庭瀬城跡まで城域を拡張したと思われている。その後、宇喜多氏の宿老である戸川逵安
が慶長4年(1599)の家中騒動で、宇喜多秀家と対立して主家を離れ、関ヶ原合戦では徳川方に
属して戦い、その戦功でこの地29、200石を与えられ、近世的な城と城下町を築いた。庭瀬戸川家
は四代安風に後継者がなく改易となり、その後、久世重之五万石、松平信通二万石、板倉重高二
万石と領主が代わり、以後明治維新まで続く。安政4年(1857)作成された庭瀬城の絵図による
と、外堀と内堀があり、城域は東西、南北とも200メートルの範囲と推定される。なお、改易後の戸
川氏は、安風の弟逵富みちとみが名跡を継いで五千石を領し、その子孫が「古城」といわれた撫川
城を陣屋にしていた。

 [備中高松城水攻め]
 高松城は周囲が大沼でかこまれており、具足をつけて辛うじて行き違うことができる細い道が一本
城ヘ通じているだけで、周囲の沼は、泥土が深く一度入ると身体が沈んで容易に動くことができなく
なった。
 秀吉をして、「高城(高松城)と申す城は名城にて、三方ふけ(湿田)を抱え、その上堀広く、たけた
ち申さず(深くて背がたたない)して、力責め成り申さず、水責めに致すべく」といわしめているほどで
ある。
 その上、城を守るのは、知勇兼備の名将清水長左衛門尉宗治であり、そのもとに決死の三千の
軍勢がこの名城にたて籠もった。本丸に清水宗治、二の丸に副将で宗治の女婿中島大炊介元行、
池の下丸には宗治の兄で入道月清宗知など。ほかに小早川隆景から検使役として派遣された武将
末近左衛門尉信賀が二千の手勢を率いて入城したから、高松城の防禦は更に堅固となった。
 
 4月21日、秀吉は本陣を八幡山の東方の立田山に進めた。高松城に最も近い最前線基地の八
幡山に布陣していた備前勢に、4月27日攻撃を命じた。その後部の山々に秀吉直属の武将たちが
陣を敷き、宇喜多勢を監視していた。
 備前勢は浮田忠家指揮のもと、城の西沼押出式の橋の外で朝から昼ごろまで戦ったが、寄せ手
は死者426人、城兵97人で備前勢は大打撃を受けて退却した。
 5月1日、主君織田信長の特使として堀秀政が信長の意向を伝えるために高松にやってきた。主
君の命令は厳しく、毛利本隊が来ない間に一日も早く落城させよとのことであった。秀吉は秀政に
上様ご出馬下さるまでに必ず高松城を落しますと伝えて下さいと言った。
 5月2日、備前勢は再び和井田口を攻撃した。この時は忠家側も慎重に胸壁の土塁を築き、鉄砲
を多く活用して戦ったので城兵も苦戦した。寄せ手は死者25人、城側は85人を失った。
 忠家勢は二回にわたり総攻撃を敢行したが、城兵は善戦して攻め側の軍勢を一歩も城地に入れ
なかった。
 秀吉軍が城の両翼の毛利軍を遮断して総攻撃をすれば、直ちに落城できると考えたが、城の守り
は堅くどうすることもできなかった。時間が経過すると、秀吉側にとって最も恐ろしい毛利本隊の援
軍が到着することになり、秀吉勢は前後に敵を受け、勝敗は秀吉方に不利になることははっきりして
いた。
 
 そこで秀吉は早速軍議を行い、早く落城させる方法として「水攻め」戦術を決定した。
 その築堤工事について、「前野家文書」の記事を紹介します。
一、高松城を足守川と北東の大小谷川を城の上方で堰止め、百五十有余町(約150ヘクタール)残
  らず水浸しにする方法について、各々申しつけた分担をよく認識し、昼夜をいとわず提普請を競
  い合って造る事。
一、浮田忠家は全員が作業に従事して、門前村から下出田村まで。ただし、この区域は最も重要な
  場所であるから、黒田官兵衛尉を指導に行かせるので、よく相談して丈夫に造る事。
一、門前村から下出田の堰止めは、原小(古)才村の蜂須賀分担区域まで築堤が終わってから後、
  塞ぐべき事。城方の通路への防衛は、加藤作内、神戸田が築堤するが、敵の出撃を押える場所
  であるから、築堤を油断なく丈夫に造る事。
一、松井村、本小山村の間の十二町(約1300メートル)は、堀尾吉晴、生駒親正、荒木重堅、桑山
  重晴、戸田正治など一緒になり、築堤の造営になるたけ手間をはぶき、損しないよう働く事。
一、蛙ケ鼻より先は、但馬衆が築堤する事。
一、この度の築堤総奉行は、蜂須賀正勝(小六)に申しつけたので、河筋をよく見て堰止め堤防の 
  方法は、落度なく築き受取り、諸侯を一生懸命に働かせ、定めた期日内で完成する事。
一、浅野長政は、海岸地方から船頭どもを集め、高松浮城の攻め口をこしらえ、備えておく事。
 なお同書の他の所に、「備前の宇喜多衆は、人数八千有余人。足守川の塞ぎ手、大方は備前衆
承って人数出し候也」と記し、宇喜多衆の実力を示して、秀吉勢の諸大名が高い評価を与えたよう
である。

 5月7日、秀吉はこの築堤大工事を一日も早く完成するため、本陣を高松城が眼下に丸見えの石
井山に変えて、ただちに堤防造りを指示した。
 城の北西の門前村の足守川堰止場所から南側へ湾曲しながら、東側の蛙ケ鼻に至る堤で、全長3
119メートル、高さ8メートル、基底部の幅24メートル、上端部の幅12メートル。工期は5月8日か
ら19日までの12日間。築堤工事完成後、足守川の川流を閉塞、折からの梅雨で増水した足守川
の水を堤防内に引き入れ、わずか数日間で巨大な人造湖を現出させた。
 近在の者たちに、土俵一俵運んでくれば銭百文と米一升を与えると触れたので、俄人夫が殺到し
て、日夜兼行の突貫工事により完成した。築堤工事の総経費は635,040貫文、米は63,504石
に達したといわれる。



 5月20日頃には城はかなり水没した。しかし籠城軍は俄づくりの小舟で往来しながら、執拗に抵
抗をつづけた。
 秀吉軍も湖に舟を浮かべて、城への攻撃をくり返した。しかし、秀吉がそれよりも力をそそいだの
は、毛利側の援軍を押し返すことだった。秀吉は水攻め作戦が有利に展開しているこの時点でも、
毛利の援軍は三万と錯覚していた。
 毛利側は秀吉の読みよりも少ない一万余の軍勢だったせいか、高松城の水没を目前にしながら、
どうしても包囲の線を破れなかった。そのために日に日に焦りもつのったようで、安国寺恵瓊を使者
に立て和議を申し込んできた。秀吉も話し合いには応じた。しかし、お互いの条件が折り合わず、取
りまとめは難航した。
 一番の対立点は高松城主清水宗治の処置だった。秀吉は切腹を要求したが、毛利側は拒否して
いた。その間も、攻防は一進一退の膠着状態がつづき、消耗戦の様相を呈してきた。そこで秀吉
は、まだ安土城にいる主君の信長に使者を派遣し来援を請うた。すると信長は、みずから西下して
秀吉の苦境を救うことを決意し、部将堀久太郎秀政を上使として備中へ派遣し、この旨を秀吉に告
げた。既に明智光秀や細川忠興はじめ、池田恒興、高山右近、中川瀬兵衛などの諸将に先発を命
じたという。


本丸にある高松城水攻めの図

 信長は5月29日安土城を出て京都の本能寺に移った。ここで軍勢を結集し、秀吉の応援に向か
おうとしたのである。ところが6月2日早暁、家臣の明智光秀に襲撃されて横死したことは、周知の
事実である。
 惟任日向守光秀は、早速その顛末を備中高松にいる小早川隆景に密書をもって急報した。密書
の大要は次のとおりである。
 急度飛檄をもって言上します。今度羽柴筑前守秀吉が、備中国で乱妨を企て、足利将軍の御旗の
 下に貴方三家がこれと対陣なされている由、末代までの美挙と存じます。しかれば、光秀こと、近
 年、信長に対して遺恨もしがたく、今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐を達しまし  
 た。すなわち足利将軍も御本意を遂げられたこととて、これに過ぐる喜びはないものと存じます。
                                          誠惶誠恐
    六月二日                                           惟任日向守
  小早川左衛門殿
 光秀は毛利氏に信長の死去を知らせて、共同の敵である秀吉の軍勢を東西から挟撃しようと企て
たのである。

 だがこの光秀からの密書は[別本川角太閤記]によると、「こうして明智光秀は早馬を出して毛利
家へ事件を急報した。光秀の使者は、六月三日の夕方に高松に到着した。使者は毛利氏の陣営と
間違って、秀吉の陣屋近くを歩き回っていたところを、警備の夜廻りに怪しまれ捕えられ拷問にかけ
られた。その際使者の懐中に一通の書状があった。この書状を開いて見た秀吉は、大変驚かれる
とともに、即刻使者の首を刎ねさせた」
 秀吉は、軍師・黒田官兵衛の意見を徴した。官兵衛は「かくなるうえは、一刻も早く毛利と和睦し
て、速やかに上洛し、主君の仇・明智光秀を討つべきでございましょう」と言って、すべての街道に見
張りを立てて、ひと一人通らぬように封鎖してしまった。
 秀吉は、この本能寺の変を徹底的に秘し、夜中ながら毛利の軍僧恵瓊を本陣まで招いてこんな論
法で迫った。「信長公が一両日中にこちらえ着陣されると、もはや講和の道は閉ざされる。その前に
是非まとめよう。自分としては、領国問題よりも、清水宗治の切腹だけは受け入れてもらわないと、
ここまで遠征した面目がたたないのだ」といって、
一、割地は川辺川(高梁川、備中)と八橋川(伯耆国八橋)の両川の以東とすること
一、清水宗治は自刃し、その代わりに城兵全員の生命を保全すること
 この二条件を提案した。
 恵瓊もなんとか両者の和解を切望していた。といって毛利側の首脳部に話しても反対されることは
自明である。

 そこで恵瓊は夜中独断で城中の宗治に合って、現在の事情を説明したところ、宗治は喜んで「主
家はこの首を救わんがため、所領の半分五カ国を割譲して下さるとは勿体ない思召しである。自分
の一死により、持ち懸りの所領をそのままにするという利益を得て、主家の安泰と城中の将兵全員
の命を救い得ることができますれば、この上の喜びはない」と自刃の約束をして恵瓊を送り出し、毛
利本陣に「一死をもって主家及び城中の者の生命に代わりたい」という切々とした書状を届けた。
 こうして和議交渉はあわただしく終わった。
 宗治は贈られた酒肴で別離の宴を張った。そして城内くまなく掃除を行い、物品の整理や記帳を
やらせたうえ、静かに座ってのびた髭をあたらせた。
 備後三原にいる子の源三郎に宛て、三首の和歌を処世の遺言として書き送った。
  身持之事
恩を知り慈悲正直に願いなく辛労気尽し天に任せよ
朝起や上意算用武具普請人を遣いて事をつつしめ
談合や公事と書状と異議法度酒と女房に心乱すな
  六月三日                       清鏡宗心 花押
 書中の清鏡宗心とは、死を覚悟した宗治が自らつけた法名である。
 乱世の名将もまた人の子の親、いざ切腹というと子への愛情がにじみ出ている。源三郎はこの亡
父の遺書を守袋に入れ、終生肌身離さなかったという。
 宗治の自刃が明日に決まると、夜中にもかかわらず城中の将士が残らず本丸に参向して、宗治
に別れを告げた。
 殉死追い腹を願い出る者を、宗治はどうしてもこれを許さず諭して、自分の切腹後の城中の後始
末や、妻子の行く末のことを懇ろに託して、最後の献酬を交わした。

 宗治切腹が決定してから、家臣たちのなかに殉死者がでてきた。明日宗治が城外へ出て切腹す
ると聞いた二の丸の老臣、白井与三左衛門治嘉(治嘉は武勇の武士で、大手の矢倉を防備して手
柄を度々たてていたが、去る4月27日の合戦で、右の股に槍傷を受けながら少しも屈せず防戦し
た)のところから、使いが本丸の宗治のもとにやってきて、すぐに申し上げたいことがありますので、
恐れながら矢倉までおいで下さいませ。宗治は何事かと行ったところ、治嘉は大変喜び、明日はい
よいよ御切腹されますそうで、切腹の仕損じがあってはと御心配のことと存じ、拙者がこころみに切
腹いたしましたが、大変やすいものでございます。これをご覧下さいませと言って腹巻をほどいたの
を見ると、腹十文字にかき切っていた。
 宗治は大変驚き、さてははやまったことをしたな、自分の切腹後妻子を頼みおこうと思っていたの
に・・・と涙を流された。治嘉はこの世の名残に、恐れながら御介錯をお願いしますと言ったので、宗
治は仕方なく介錯した。

 翌四日巳の刻(午前10時頃)、宗治は舟にのり死出の旅に、三の丸総門脇から出ようとした時、
最後まで御供仕らんと走り出た者がいた。見れば月清の馬の口取・与十郎と宗治の草履取・七郎
次郎の二人である。宗治は二人に向かって言った「秀吉は講和を約束したが、どんなに変わるかわ
からない。その時、毛利家のために一人でも生き残っておかねばならない。副将・中島大炊介もぜ
ひ殉死したいと申し出たが許さなかったのであるから、思いとどまって末永く主家のためにご奉公し
なさい」と諌めた。そして、宗治は国府市之允(市正)に目配せして、舟を濁水の湖の中に出させ
た。
 これを見た与十郎・七郎次郎の二人は、「お館様、おさらばでございます。それでは一足お先に三
途の川で御待ち申し上げます」と告げると、二人は刺し違えて水打ちぎわに倒れた。宗治は瞑目し
て合掌した。今もこの場所を(ごうやぶ)と呼んで、その遺跡は大切に保存されている。


史跡ごうやぶ:ポインターを当てると鳥居がバックになります鳥居の左(北)が石井山

 [清水宗治切腹]
 宗治らは、秀吉の差し向けた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ寄せると、秀吉の陣営からも検使
の堀尾茂助吉晴が小舟に乗って漕ぎ出し、酒肴を宗治の舟へ贈り、城主一行を讃える秀吉の言葉
を伝えると、宗治はその言葉に謝して茂助ほか一同と訣別の杯をくみかわした。やがて宗治は羽柴
勢が見守るなかで、「川舟をとめて 逢瀬の浪枕 浮世の夢を見習はしの 驚かぬ身ぞはかなき」と
いう[誓願寺]の曲舞を悠然と謡い、かつ舞った。月清と信賀ほか一同もこれに唱和した。そして、
 浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して
の辞世の一首をしたため、音吐朗々とこれを詠み上げて、従容として腹十文字にかき切って果て
た。見守っていた城兵はすべて涙を流し、ついに名将宗治は逝った。
 享年46歳。高松院殿清鏡宗心大居士
 見ていた秀吉をして、古今武将の明鑑と感嘆させた。
 続いて兄、入道月清宗知。
 「道のべの 清水流るる柳蔭 暫しが程の世の中に 心とむるぞ愚かなる」と謡い終わると切腹。
辞世の和歌:世の中の 惜しまるるとき 散りてこそ 花も楓も 色も色なれ
 続いて軍監、末近左衛門信賀(備後久井羽黒山城主)。太刀を抜き放ち、舟板を踏み鳴らしなが
ら、「敵と見えしは群れている鴎(かもめ) 鬨の声と聞えしは浦風なりけり 高松の朝の露とぞ消え
にける」と謡って切腹した。
辞世:君がため 名を高松に とめおきて 心はかえる ふるさとの方
 続く難波伝兵衛宗忠も同じく従容として自刃。
 介錯はいずれも国府市之允(高市正と書かれた史書もある)である。市之允は、これらの首をすべ
て桶に納めた。
 
 まことに壮烈な宗治主従の最期であった。宗治の首級だけは検死使に渡された。
 秀吉は、宗治の首を持宝院本堂にまつり、家臣に「真に古今武士の明鑑なり」と嘆賞し、後に持宝
院境内に篤く葬った。その首級のつぼは明治42年掘り出し(首瓶に歯3本と、武士の作法通りに短
刀3片と、土師器の杯があった)、高松城跡の本丸に移されている。
 任務を全うした市之允は、舟を高松城へ漕ぎ戻して、その場で自刃した。宗治の胴体は城内に埋
葬され、いまも胴塚がさびしく立っている。



本丸跡の北側にある宗治公の胴塚と案内板

 [清水宗治と七将像](個人蔵)
 備中高松城水攻めの時、切腹した毛利方の武将と家臣七人の肖像画。中央上に清水宗治、右に
実兄月清、左に末近左衛門信賀、その下に林重真(冠山城で切腹)、難波伝兵衛、白井与三衛門、
国府市之允。その下に小者の七郎次郎と、月清の馬の口取与十郎を左下に置いている。


本丸にある宗治公首塚


本丸にある清水宗治辞世の石碑
 この歌について[中国兵乱記]では、月清の辞世とし、宗治のそれは「世の間の惜るる時散てこそ
花も花なれ色も有けれ」だと書いている。[中国兵乱記]の著者は、高松城に宗治とともに籠城して
いた中島大炊介元行であるので、大変信憑性がありますが、[清水家文書]では「浮世をば・・・・・」
を宗治の作と伝える。


宗治公が自刃した場所にある墓所

 恵瓊は四日の午の刻(正午)に秀吉本陣に参向し、口上を述べた。「毛利家にては、和談をおおか
た合点いたしておりますれば、起請文を賜わりとうござりまする」秀吉はただちに起請文をしたため、
恵瓊に渡した。毛利方首脳部もいまはやもなしと和談に応じた。
 両軍は五日の朝に陣所を引きはらうことになった。秀吉は約定をとりかわすと、ただちに諸隊の指
揮官を呼び集め、上様が本能寺で明智光秀に討たれたことを告げた。「われらは一刻も早く立ち帰
り、上様がご無念をはらさねばならぬだわ。さればこれより摂津表へ急げ急げ、軍令に従わぬ者あ
れば斬りすてよ」ここに[中国大返し]といわれる、姫路までの猛スピード撤退が行なわれた。
 五日の日没前に一万の宇喜多勢が退陣した。高松城には杉原七郎左衛門が、三千の兵とともに
たて籠っていた。秀吉勢の全軍が姫路城に帰陣したのは八日午前であった。

 ところで、毛利側はなぜ秀吉勢を追撃しなかったのであろうか。毛利側が信長の変死を知ったの
は、秀吉勢が当地を撤退した五日夜と推定される。毛利側は前日宗治が切腹し、秀吉にはかられ
和睦が成立した直後であったので「秀吉にだまされた」と怒り、特に吉川元春が追撃を主張したり、
元春の嫡男元長ほか諸将も追撃を敢行すべしといきり立った。
 しかし小早川隆景はこの主張に反対し、「誓紙の血がまだ乾かないのに、これを破るは不義であ
り、信長の喪に乗ずるのは不祥である」と、これを制した。もう一つ断念した理由は、毛利勢の兵力
は一万余にすぎなく、追撃の軍勢としては少なさすぎたからと思われる。さらに正確な情報判断をす
るのに時間がかかり、追撃の時期を失したのではないかという説もある。
 毛利氏はこの年の秋、和議条件の高梁川以東の土地を割譲することを約束したが、備中松山城
だけを返還してほしいと、秀吉に強く要求した。秀吉はなかなか許諾の返答をしなかったが、二年後
の天正12年(1584)の冬、毛利氏に松山城だけをもどした。
 後年天下人になった秀吉は、高松城の和議を守ってくれたことを感謝して、毛利家に対し特別待
遇をした。きびしい太閤検地も毛利領内は実施しなかった。また、豊臣政権の最高機関の五大老に
毛利輝元と小早川隆景の二人も入閣させていることをみてもよくわかる。

 高松城を開城させた秀吉は、これを宇喜多氏に与え、宇喜多氏の武将花房正成が城主になる
が、城はその時に大改修された。なお関ヶ原合戦の後、旗本としてこの地に入る花房職秀(職之)
は、正成の一族である。職秀は、宇喜多秀家を諌めて勘気に触れ死罪になるところを、秀吉のとり
なしで常陸の佐竹氏に預けられていた。関ヶ原合戦で東軍に属して戦い、徳川家康から8,220石
を与えられこの地を領した。数年はここに陣屋を構えたが、のち阿部(総社市阿部)に移ったため、
高松城は廃された。
 昭和の時代には、本丸跡だけ保存され周囲は水田だったが、平成になって二の丸と推定される
場所などを買い上げ、遊歩道や駐車場さらに資料館などを設け、国の史跡に指定されている。

 [落城後の清水氏]
 清水宗治が切腹し、高松城が秀吉のものになったので、城中にいた人々は城外にだされた。援軍
に来ていた備後の兵は、郡山城や三原城へ帰っていった。
 宗治直属の家来のなかで戦死しなかった百騎ばかりが、宗治の妻子のお供をして備中河辺(真備
町河辺)に引き下がった。河辺には、宗治の嫡男源三郎が小早川隆景から、浪人分として百人扶
持をいただき河辺に居住していた。
 秀吉が天下人になり二・三年経った時、隆景に「清水宗治という立派な武将がいたが、その宗治
に男の子がいたな。その子をわしにくれ。知行を一・二万石とらせ大名にしよう」といった。隆景は
「ありがたいことでございますが、本人にその意志をたずねてお答えいたします」と答えた。隆景が
三原城への帰途、河辺の家に景治(源三郎)をたずね、黒田官兵衛尉と同席して秀吉の意向を
直々に伝えた。
 景治は「親の筋目のこともあり、秀吉公の御意は大変ありがたく忝なく思いますが、御当家(毛利
家)に奉公いたしたいと存じます」と答えた。時に景治16歳であった。義理堅い宗治の子らしい返
答である。
 その後、毛利輝元は宗治以来の功績に対して、景治を家老につぐ寄組士の席につけた。そして周
防国の野村村、浅江村、島田村、立野村、吉部村の合計2,500石余の領地を与えた。
 景治は藩の財政整理に尽力し、常に毛利秀就の左右に近時して藩体制の確立につとめたが、寛
永12年(1635)正月、65歳をもって隠居を願い、慶安2年(1649)正月16日79歳で没した。その
死後お守袋のなかから先にご紹介の父の遺言状がでた。


景治が浅江村(山口県光市浅江町)に建立した清鏡寺の案内板


清鏡寺にある清水宗治主従の供養塔

同西側

同東側

 景治(美作守)の嫡男元貞がその跡を継いで以後、就信ー就治ー宗貞ー元周と清水家はつづき、
幕末毛利家浮沈のとき、宗治十二代の裔清太郎親知は元治元年(1864)、わずか22歳で尊皇の
大義を称え、節に殉じ自刃して再び主家を救ったとある。

 備中高松城の歴史を最期までお読み戴き、誠にありがとうございました。

 参考図書
備中高松城の水攻め 市川俊介著、歴史散歩岡山の城 山陽新聞社、よみがえる日本の城 学
研、歴史と旅、他


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