備後歴史雑学 

[相方城]
種別:山城  別名:佐賀田城

 有地民部少輔元盛が天正初年(1570年代)頃に築城したと推定されています。相方(さがた)城は標高191メートル
の通称「城山」の山頂を中心にして、東西約1000メートル、南北約500メートルの範囲に城郭遺構が分布し、特に東
方への眺望がきくことと、南側だけであるが総延長100メートルにわたり、高さ2〜5メートルほどの打込接(うちこみは
ぎ)の総石垣で築かれた大規模な城である。
 相方(さがた)城は芦田川を挟んで正面(北側)に見える亀寿山城を本拠地として、備後南部に勢力をもっていた国人
領主の「宮氏」や、相方城より南を本拠地としていた宮氏一族の「有地氏」などにより、16世紀前半には中世山城とし
て整備されていた。天文21年(1552)に宮氏が滅んだ後は、天正19年(1591)頃に有地一族が、出雲国に給地替
えされるまで、相方城を拠点に当地を支配していた。その後は毛利氏の直轄城として東方の備えを目的とした近世城
郭として整備され、関ヶ原の戦いによる毛利氏の移封によって相方城は廃城となった。

 主郭となる山頂部の遺構は、標高191メートルを頂部とする東側曲輪群と、幅約30メートル、深さ約10メートルの空
堀を挟んで標高188メートルを頂部とする西側曲輪群がある。尾根の頂部を東西方向に利用した連郭式の山城で、
東側と西側はそれぞれ独立した城郭とも考えられる。
 東側曲輪群の主郭部は、高さ2〜5メートルほどの打込接の総石垣で築かれている。最高所の二つの曲輪は300〜
700平方メートルと広く、遺構確認の発掘調査により、瓦葺の堀立柱建物跡が確認されている。東側に続く尾根には
曲輪群が続き東端の曲輪群までを城域としている。また東側曲輪群主郭部の西端には桝形門の曲輪がある。
 西側曲輪群は主郭部の周囲に石垣が残存しているが、そこから西に続く曲輪群には石垣は使用されていない。西側
の城域は尾根鞍部にある幅10メートルの空堀で区切られている。
 北側は断崖絶壁で眼下には、芦田川を挟んで対岸に宮氏一族の居城であった亀寿山城が望まれる。

 相方城は二時期以上の大規模な築城が行われ、15世紀末から16世紀前半に在地の領主有地氏によって築かれ
た中世山城の上に、天正19年(1591)から慶長5年(1600)の間に毛利氏が直轄城として城山山頂部の主郭部を
総石垣で築き、建物の瓦はその時に周辺の社寺の瓦を使用したのではないかと考えられている。廃城となったのち
は、大規模な破却をされることなく、城門や櫓は戸手(福山市新市町戸手)の素盞鳴神社(江戸期には天王寺という寺
も存在していたが明治になって寺は廃された)に移築保存されている。(有地氏最後の城主、民部少輔元盛の弟が素
盞鳴神社の宮司となったので城郭が保存された)
 相方城からは東方に位置する神辺城が遠望でき(直線距離で7〜8キロメートル)、毛利氏は東からの侵攻に対し神
辺城の次の拠点に、相方城を重要視していたことが想像できます。
 現在城跡にはテレビ塔が建っていて、頭頂部まで車で行けます。また城山はウオーキングコースとしても利用されてい
ます。


相方城跡略測図


相方城頭頂部の主郭部北面(左東側・右西側)


       東頭頂部主郭部南面            西頭頂部より見た東頭頂部門曲輪の石垣

[有地宮氏]
 中世後期、現在の福山市芦田町一帯を本拠とした国人領主である。品治郡(福山市新市町新市)の亀寿山城を本拠
に備後屈指の勢力を誇った国人領主宮氏の庶流で、芦品郡有地村(福山市芦田町上・下有地)に土着したため「有地
氏」を称した。しかし分出の年代ははっきりしない。
 江戸期の記録によれば天文年間(1532〜54)、初代有地石見守清元は兄弟不和のことがあって亀寿山城を出
奔、有地一ケ村を押領して国竹城に住し、三代民部少輔元盛の代になると新市附近の本家宮氏の旧領をも合せ領し、
北は神石郡高蓋(三和町高蓋)、西は芦田郡栗柄(府中市栗柄町)、東は品治郡近田村(福山市駅家町近田)までそ
の支配下に収めたという。
 有地元盛は毛利氏に属して戦功があったが、完全に服従していたわけではなかった。毛利氏が戦国大名化する以前
は毛利氏と同格の国人領主であって、半独立的な性格を持っていたからである。
 天正10年(1582)6月、毛利氏が備中高松城で羽柴秀吉軍と対陣中、毛利元就の娘婿上原元祐が秀吉側に寝返
った際には、陣中の動揺を押えるため、備後の有力国人衆と共に有地氏も毛利氏から人質を取られている。

 有地氏ら備後の国人衆は、常にその行動を毛利氏から疑惑の目で見られていて、毛利氏はこのような国人衆の完
全な家臣化には非常に苦労したが、天正19年(1591)頃、有地氏が知行替えによって出雲に移されたのも、国人衆
の家臣化政策の一環として有地氏の在地性をうばい、その勢力を弱めて完全に服従させるためであった。
 この結果、有地氏は伝統的な備後国人衆としての立場を失い、大名毛利の一家臣として近世に至るのである。備後
における有地氏の所領を示す確かな史料は残っていないが、出雲国に移ってからの知行高は1,518石余であり、江
戸時代の村高で3,000石強となり、有地氏が実際に支配していたと考えられる、上・下有地村と相方村の村高の合
計(2,061石余)と品治郡宮内村の村高(889石余)を合わせたもの(2,950石余)とほぼ等しく、これから推定する
と有地氏の本領は、有地村と相方村並びに本家宮氏の旧領の一部である宮内村であったと考えられている。
 なお民部少輔元盛は、毛利氏の防長移封に従って萩に移住したが、その後周防の日蓮宗本国寺六代目の住職とな
り、日栄と号した。

 (有地氏と山城)
 有地氏の初期の居城である国竹城(芦田町上有地)は低丘陵上に築かれたもので、曲輪面積は広いものの防備は
弱く、居館といった方が良い。
 次いで天文年間に築かれたと思われる大谷・殿奥の両城(芦田町下有地)は有地谷の奥まった所にある峻険な山城
で、多数の曲輪を持ち、土塁・空堀等で厳重に防備された戦国山城である。平時は国竹城に居住し、一朝事有る時に
は大谷城や殿奥城に籠ったと思われている。
 有地元盛がその全盛期である天正初年に築いたと伝えられる相方城(福山市新市町相方)は、標高191メートルの
山上に全面的に石垣を使用して築城され、櫓・城門も瓦葺、礎石使用の本格的なもので、中世城郭から近世城郭への
移行途上の城郭として、神辺城と共に県下でも貴重なものといわれている。


相方城の模型(ポインターを当てるとアップします)

  
素盞鳴神社に移築保存されている相方城の城門二基(左東側はポインターを当てると内側が見れます)右は櫓門

[亀寿山城跡]
 城郭は相方城の対岸に位地し、南の芦田川と東の神谷川に挟まれた急峻な丘陵(通称亀寿山)全体を城砦化してい
る。1987〜8年に遺跡調査団によって調査が行われた結果、南北800メートル、東西600メートルの範囲に遺構が
分布し、西南東側は城域が明らかであるが、北側は中学校建設のため遺構は不明でしたが、土器が北側に隣接する
桜山城まで繋がっていた。
 中心となる曲輪は標高139メートルの頂上部を幅60メートル、深さ14メートルの大空堀と、その中央部に土橋を伴
う幅5メートルの空堀によって東西二つの主郭群に分けられる。また、東の主郭群から北に向って延びる尾根には北
の主郭群があり、南東に向って延びる尾根の先端には南東の曲輪群がある。
 西の主郭群からは南に向って延びる尾根が途中で二股に分かれ、それぞれの先端部に曲輪群が確認された、また
西に向っても曲輪群が確認されており、西北の鳶尾(とびのお)城に繋がっている。遺構は全山にわたり展開している
が、大きく分けて尾根先端部・中腹部・頂上部に曲輪群をつくり、それぞれの谷部には居館もしくは城の入口に相当す
る施設があったものと考えられている。
 亀寿山城跡は城域こそは大きいが、それぞれの曲輪は小さくまとまっており、小単位のグループでそれぞれの城域
を防御するシステムになっていたと考えられる。
 亀寿山城の北2キロメートルには備後一宮吉備津神社があり城主宮氏とは密接なつながりを持っていて、隣接する
桜山城跡(国史跡)・鳶尾城跡・吉備津神社(国史跡)を含めた城館跡群(吉備津一宮城跡)の一つとして、南側の防御
施設であったと考えられる。

[亀寿山城宮氏の興亡]
 現在、一般にいわれているのは宮氏は平安朝の貴族「小野宮(藤原)実頼」の後裔であって、小野宮の小野を略して
「宮氏」を称したという。宮氏は南北朝の内乱の過程で大きく成長してきた国人領主である。
 宮氏が歴史上に現われるのは、元弘3年(1333)2月28日、後醍醐天皇の激に応じて伯耆船上山に馳せ参じた武
士の中に、備後の江田氏・広沢氏・三吉氏等と共に宮氏の名がある。しかし南北朝時代の宮氏で特筆されるのは、何
といっても亀寿山城初代城主と伝えられる、宮下野守兼信入道々仙の活躍である。
 彼は同族の宮盛重が南朝方或いは足利直冬方として活躍したのに対抗して、終始足利将軍方として行動し目ざまし
い活躍を見せた。特に貞治元年(1362)足利将軍家に敵対する足利直冬が、大勢力を率いて宮内(福山市新市町)
に陣し亀寿山城を攻撃した時には、直冬の降伏勧告を断固しりぞけ、一年余りの籠城の末貞治2年9月ついに反撃に
転じて、直冬の軍勢を撃退した「備後宮内合戦」。
 足利将軍もこの兼信の戦功を認めて、この合戦の後「備中国守護職」に任じてその労にむくいている。このように亀
寿山城の宮氏は兼信の活躍によって大きく勢力を伸ばし、次の室町時代に備後きっての有力国人として活躍する基礎
を固めた。

 室町時代の宮氏の特色は室町幕府奉公衆の一員となっていて、「幕府直勤御家人」とか「奉公衆」と呼ばれ、常に在
京して将軍の身辺警護の任にあたり、いざ合戦という場合には将軍の「馬廻り」として働き、将軍の直轄軍として重要な
意味を持ち、在地では守護大名から独立した権限を有した。宮氏は一般の国人より有力で地位も高かった。こうして
代々将軍奉公衆として各種の記録に現われている。
 応仁の乱の時は、亀寿山城宮氏の当主は宮若狭守政信と考えられるが、政信は宮五三郎盛忠という者とペアを組
んで西軍の山名宗全(持豊)に味方している。応仁の乱は文明9年(1477)両軍首領の和平によって終焉を迎えた
が、明応2年(1493)幕府管領の細川政元のクーデターによって時代は本格的な戦乱の世へと突入した。これによっ
て将軍奉公衆は四散し、亀寿山城宮氏も備後に帰国したと思われる。
 当時備後国は山名俊豊を守護として押す山名直通一派と、俊通の父政豊を守護に復職させようとする江田・和智両
氏を中心とする一派との間で、明応7年(1498)まで国内を二分しての激しい争いが行われた。亀寿山城宮氏の動き
ははっきりしないが、江田・和智一派を支持していたものと思われる。

 戦国時代の備後国は出雲の尼子氏と周防の大内氏との角遂の場であった。このような形勢の中で亀寿山城主宮氏
は初めの内は大内氏に味方して諸方に出陣しているが、大永年間(1521〜27)尼子氏の勢力が急伸すると一転して
尼子氏に属したようである。享禄から天文9年(1528〜40)にかけては尼子氏の全盛期で、備後の国人衆はほぼ尼
子色にぬりつぶされている。
 これに対して大内氏も勢力の挽回を策し、大永6年(1526)には安芸の毛利元就を味方につけ備後の攻略を命じ
た。

 天文3年(1534)元就は備後に兵を出し、2月上旬亀寿山城を包囲した。当時の城主宮下野入道直信は「備後国
主」を称し尼子方の有力者であったので、元就は先ず一番に亀寿山城攻撃を選んだ。これを落とせば他は恐れて大内
氏になびくと見たのである。
 これに対し宮下野入道は自信満々で迎え討ち、宮氏輩下の土豪達も各々手勢を引き連れて亀寿山城に入城した。と
ころが宮下野入道は風病にかかり急死したのである。
 あとには幼い嫡子若狭守元盛が残された。城方では家老の丹下与兵衛尉が幼君を擁してあくまで抗戦したので合戦
は長期戦となったが、しかし城主宮氏の命運は尽きていたようである。10月に入って城方の柱石ともたのむ丹下与兵
衛尉が戦死したのである。城内には陰鬱な空気がただよい、10月中旬遂に降伏・開城したのである。
 
 宮氏の一族は備後の各地に勢力を伸ばしており、比婆郡(現在は庄原市)西城の大富山城に久代宮氏、東城の小
奴可城には小奴可宮氏や志川滝山城(福山市加茂町)の宮光音(みつなり)らがいた。
 元就はこのうち久代宮氏と小奴可宮氏は武力を加えずして服属させたが、備後石成荘に本拠をおいていた宮光音に
ついては、尼子晴久と組んで毛利氏に反抗したために、天文21年(1552)7月、志川滝山城を攻めて滅ぼしている。
さしもの強大を誇った備後南部の宮一族も志川滝山合戦後には全く毛利氏に屈伏したようである。

 ちなみに天正末年、毛利氏が朝鮮出兵の動員を行った際の軍役帳によれば、備後の宮一族の所領は、宮瀬兵衛尉
1,032石、宮次左衛門尉977石(いづれも年貢収納高)とある。
 残った備後の国人衆達は、関ヶ原決戦後の毛利氏と共に長門に移ったが、毛利家内では冷遇されたそうである。


相方城頂上より見た亀寿山城跡(南面)


          亀寿山城跡略測図          鳶尾城跡略測図


               桜山城跡略測図                志川滝山城跡略測図

[桜山城跡]
 亀寿山の北、吉備津神社の南側丘陵が桜山で、そこに南朝の大忠臣桜山四郎入道茲俊(これとし)の居城があっ
た。[備後古城記]には、「桜山の城、亀治山と鳶ノ尾の峰の間にあり」と記し、一宮城とも呼ばれた。
 桜山茲俊は亀寿山城主宮氏の一族で、この山に本拠を構え桜山氏を名乗ったと推定される。茲俊を有名にしたのは
[太平記]で、その巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」によると、「元弘元年(1331)9月、茲俊は楠正成に呼応して
備後に挙兵し一宮を城郭としてたてこもり、近隣の豪族達を味方につけて一時は備後半国を支配し、備中や安芸へも
進出するほどの勢いを示した。ところが、頼みとする笠置が落城し後醍醐天皇は幕府に捕えられたので、味方から見
放されついに二十余人の郎党だけとなった。やむなく茲俊は人手にかかって屍をさらすよりはと、一宮(吉備津神社)に
入り、八歳になる愛児と二十七歳の妻を刺殺して、社壇に火をかけ、郎党ともども自刃した」とある。[吉備津宮勘合略
記]によると元弘2年(1332)正月21日とある。
 そこで土地の人々はその最後を哀れみ、長享2年(1488)頃、城跡に桜山神社を建立して茲俊を祭神としたが、明
和2年(1765)に暴風のため倒壊した。現在吉備津神社境内にある桜山神社は、明治44年(1911)桜山城跡から
移され再建したものである。戦前、皇国史観が一世を風靡した時代、この神社の祭神桜山茲俊は楠公と並ぶ大忠臣と
して大いに称揚された。


桜山城跡の案内板


桜山神社

[吉備津一の宮神社]
 吉備津神社の創始は、神社の由緒書の「重興記」には大同元年(806)とあるが、「福山市史」によると吉備津一宮
鎮座年代は確かなことは明らかにし難いとある。
 確実な文献としてその存在を示す最古のものは、永万元年(1165)6月の神祗官諸社年貢注文「永万文書」であり、
吉備津宮が神祗官との間に一種の荘園制的関係を結んでおって、年貢として五石を神祗官に進上していた。これに次
ぐ文献は、寛喜3年(1231)11月27日夜、この宮が焼亡して御身本巳下が灰燼に帰したという「百錬抄」の記事であ
って、この種の中央の編著に記されていることから、当時この宮が高い地歩を占めていたことを物語っている。これら
二種の文献から吉備津宮の鎮座はかなり古いものであると推定できる。
 鎌倉時代には、領家には京都の一条家がなっており「吾妻鏡」、次いで「吉備津宮勘合略記」によると元弘2年(133
2)正月21日、桜山四郎入道茲俊が社殿に放火、自刃しており、永和2年(1376)に小野宮左近将監が再建してい
る。
 中世に入ると宮氏を始め武士からの奉弊が多かったが、一般民衆からも備後の一宮として広く信仰を集めるに至
り、吉備津神社における毎年10月17日の祭礼には、備後国全体から有力神社の社家たちが参集し、鳥居内の御手
洗池の前に内郡・外郡の二部に分かれて座席を設け、神職の高下の序列を定める座直りの行事が行なわれた。また
中世後半には遠く備北の社家も参集していた。

 祭神は四道将軍の一人で吉備国を治めた吉備津彦命(きびつひこのみこと)と第七孝霊天皇で、創建当時は北に孝
霊天皇、南に吉備津彦命を祀る両社であったそうだ。それが元弘2年焼失してなくなり、慶安元年(1648)に福山藩主
水野勝成が再建したとき、一社に合祀して、本殿をはじめ諸社殿を造替している。現存する本殿、拝殿、神楽殿、多理
比理神社社殿などは、この時の建立である。現社殿には本殿の瓦に水野家の家紋である沢瀉(おもだか)が用いられ
ている。


鳥居を入ってすぐの所(正面石段上に本殿、右側に桜山神社)ポインターを当てると案内板が出ます


吉備津神社本殿正面 ポインターを当てると右斜め側になります


吉備津神社本殿の案内板

 最後までお読み戴きありがとうございました。ご紹介の「相方城跡」「亀寿山城跡」及び「宮氏」については諸説ありま
すので、郷土史家、備陽史探訪の会・会長の田口義之氏の著書を参照させて頂きました。
 戸手の素盞鳴神社は毎年7月中旬頃、けんか神輿で有名な祗園祭り(通称天王さん)で賑わいます。
 吉備津神社は毎年11月中旬頃、(通称一宮さん)の祭りで賑わっています。

 参考図書
福山市史、福山・府中の歴史 郷土出版社、山城探訪・備後の山城と戦国武士 備陽史探訪の会田口義之、備後の歴史散歩 山陽
新聞社、日本の名族 新人物往来社、歴史群像シリーズ毛利元就 学研、

新市町観光ガイドはこちらまで

トップへ戻る


inserted by FC2 system