備後歴史雑学 

[鞆城]
種別:海城 鞆津城

 毛利元就が天文年間(1532〜1555)に築城したと推定されています。小早川隆景の築城とも
いわれています。この時代、大内義隆勢が山名理興を攻めた神辺合戦(天文12年から同18年)の
ため、小早川隆景は天文14年(1545)から同16年まで鞆に本陣を置いて拠点としていました。ま
た、天文13年7月3日付の大内義隆が因島の村上新蔵人吉充にあてた「鞆浦内十八貫文の地を
宛行う」の知行状から、村上氏が大可島城の対岸本土側で鞆港の上にある丘上に築城したともい
われています。いずれにしても、大内方が出雲の尼子氏に対抗して築城しました。
 眼前の大可島城(たいがしま)は、鎌倉末期から南北朝初期に築城されたとあり、南北朝時代に
大可島城が両軍の抗争になっており、貞和5年(1349)に長門探題足利直冬が鞆に在住したと
き、この城に拠ったことが「太平記」にあります。
 
 その後、毛利氏に替わって福島正則が慶長5年(1600)に入国すると、鞆城には重臣大崎玄蕃
を城代にして新しく三層の天守を築き、城郭の整備を行って瀬戸内の護りとしている。この時大可島
城は廃され埋め立てて陸続きとなりました。元和元年(1615)の一国一城令により鞆城は廃され、
天守櫓は三原城に移築された。
 福島氏に替わって水野勝成が元和5年(1619)備後10万石の領主として入国しました。勝成は長
子勝俊をこの城跡の居館に置いて瀬戸内海への抑えとした。勝俊は寛永16年(1639)に藩主にな
るまで鞆にいました。
 
 その後鞆には奉行所が置かれました。鞆の津は公式の海の駅であるため、鞆町の支配だけでな
く、幕府使臣をはじめ諸大名や朝鮮通信使などの往来に備えるため鞆在番衆を置き、それらを監視
する鞆目付も派遣されていて、幕末まで物流経済の「備後の首府」として繁栄が続きました。
 江戸時代には往復12回の朝鮮通信使が訪れていて、福山藩は総力をあげて応接・接待を行い、
それらの関係人員と見物人とで鞆の津は祭りのような賑わいであったと記されています。
 朝鮮通信使の正使・副使・侍従の宿所は福禅寺が慣例で、正徳元年(1711)福禅寺の客殿対潮
楼から景色を眺めていた通信使の話題が、朝鮮から江戸まででどこが一番の景勝地かにおよび、
正使・副使ともにここからの眺めを絶賛したので、侍従李邦彦は「日東第一形勝」の書を残してい
る。



       鞆の浦中央下の丘が鞆城跡・右上大可島城跡       鞆港背後の山より見る


            鞆城本丸より見た大可島城跡           鞆城本丸より見た港


             本丸下から見た階段            同本丸上から見た階段と石垣


                  対潮楼                      対潮楼下から見た弁天島

[大崎長行]
 与一郎のち玄蕃長行は、木村重茲の家臣で軍功多く世の人に「鬼玄蕃」と呼ばれていたが、福島
正則に見込まれて家来になり重臣となった戦国武将です。
 正則が会津征伐で家康に従って東国に向っていた時、西で挙兵した三成の使者、木村宗左衛門
重則が清洲城を訪れて、豊臣家の恩を語り西軍に味方をするように伝えると、清洲城の留守家臣団
の意見は西軍に従うか、それとも要求を拒否するか真っ二つに割れた。なかでも正則の舅にあたる
津田備中守長義は「正則公は豊家の一門ゆえ当然西軍に味方するであろうから、西軍の兵を清洲
城に入れることを了承しよう」とした、ところが重臣の大崎玄蕃長行はこれに強硬に反対して、津田
派と大崎派が睨み合いになり一触即発の状況になった。しかし結局は長行の意見が通り、正則が
帰城するまでは城門を開かず城の守備を固めることとなった。
 後日、この関ヶ原前夜の清洲城の話を耳にした家康は「関ヶ原の勝利の一つは長行が清洲を丈
夫に保ったからだ」と、たびたびその措置について褒めそやしたという。
 福島家が減知転封になった後、長行は将軍秀忠の命によって同じ福島旧臣の村上通清、真鍋貞
成とともに紀州徳川頼宣に召しだされた。初お目見えの際、紀州藩重臣安藤直次は三人の若い時
からの戦歴を尋ねた。村上、真鍋はあますところなく諄々と語り、いずれも比類なき戦歴だったので
一座の人々を驚かせた。長行の番となり一同期待して聞いていると「我は与一郎と言って槍一本の
者に候、木村家では鬼玄蕃と呼ばれ、福島家では一手の将となり備後鞆の城主になったので、若
き頃より鈍くは無かったと思し召され候へ」、直次はじめ皆尤もと感じ入った。


                足利義昭像                山中鹿介幸盛の首塚

[足利義昭]
 天文6年(1537)11月3日、12代将軍義晴の次男に生まれる。6歳で奈良・興福寺の一乗院に
入室し僧名・覚慶といった。永禄8年(1565)5月19日、松永久秀と三好三人衆が兄である13代
将軍義輝を殺害する。(義輝は塚原ト伝に師事して免許皆伝の腕前で剣豪将軍と謳われていて、二
条室町第に押し寄せた大軍を前に斬り死にの覚悟を決め、愛蔵の名刀を幾振りか畳に突き立て、
斬っては新刀に取り替え阿修羅のように剣を振るい、もはやこれまでと覚悟した義輝はいったん奥
に走り込んで、「五月雨は露か涙かほととぎすわが名を遂げん雲の上まで」と辞世の句をしたためて
から、再びとって返そうとすところを、襖の陰から池田丹後守に槍でいきなり足を払われ転倒し、何
枚も襖をかけられて突き殺された。義輝30歳であった。将軍が戦場にて命を落したのは義輝のみ
である)
 覚慶も幽閉されるがからくも脱出し、足利将軍家の復興を決意し還俗して義秋(後に義昭)と名を
改めた。永禄11年(1568)10月、織田信長にかつがれた義昭は征夷大将軍に任じられ、宿願の
室町幕府再興をはたした。しかし信長の意に反し義昭が将軍として政治的活動を始めたため、二人
の間には不和が生じる。
 天正元年(1573)3月、義昭は二条城で信長と戦い、戦況が不利になると朝廷を通じて無条件降
伏をした。ところが信長が岐阜に帰ると、義昭は朝倉・武田・石山本願寺などを味方にし、同年7月
二条城を側近の三淵藤英らに守らせ、自らは宇治の槇島城に拠った。兵力は3700とも6000とも
いわれる。しかし信長は四、五万もの軍勢で槇島城を取り囲んだ。総攻撃の直前になって義昭は二
歳の幼児を人質として降伏した。

 天正4年(1576)2月8日、信長に京都を追われた義昭は毛利氏に信長との開戦を求めて鞆に逃
れ、この地で幕府再興を志した。天正10年頃まで鞆に居住し、その後、津之郷(福山市津之郷町)
へ移り天正16年豊臣秀吉の許しを得て上洛するまで留まった。
 鞆幕府といわれるように当初は毛利氏の援助もあり、遠国大名の使者や毛利領内の有力な国人
衆たちが集い、小幕府的な活況を呈した。これらの来訪者を義昭にとりもったのは、毛利氏の外交
僧で安国寺の住持となった恵瓊であった。
 しかし、次第に毛利氏から疎まれるようになって援助を出し渋っていたようです。義昭の随行者は
主な家臣だけでも50人をこえていたそうで、義昭の近臣・畠山昭賢が出した吉川元春宛書状に「も
はや我が身の上思うにまかせない次第となり、輝元殿にご配慮いただけるよう、ご助言のほど・・・」
と無心ともとれる手紙を残している。それでもなお、義昭は将軍としての誇りを捨てたわけではなか
った。天正13年、信長の後継者となった秀吉が征夷大将軍の位を望み、義昭の猶子にしてくれるよ
う願い出たが拒絶し、献上された巨額の金品も使者に持ち帰らせている。
 天正16年1月その秀吉に許されて、義昭は再び京の地を踏み出家して昌山と号し、一万石の扶
持を得、歌会を楽しむなど穏やかな晩年を送った。慶長2年(1597)8月28日没。享年61歳。

[山中鹿介幸盛]
 天文14年(1545)8月15日、出雲国富田庄が出生地。名を甚次郎のち鹿介(しかのすけ)幸盛。
妻は尼子の重臣亀井秀綱の娘。尼子毛利合戦(永禄5年〜同9年11月)に勇戦した。永禄8年(1
565)春、鹿介21歳の年に毛利軍の総攻撃がはじまる。鹿介が品川大膳と一騎打ちを演じたのは
このときである。組んずほぐれつの激闘の様子が残されていますが、鹿介はどうやら秋上庵之介の
助太刀で大膳を討ちとったらしく、鹿介もむこうずねを切り割られる深手を負ったと「太閤記」にある。
鹿介はこの一騎打ちの手柄が自慢でならなかったらしく、会う人ごとに吹きまくったそうである。9年
11月富田城が落ち、尼子義久ら三兄弟は毛利氏に降り、鹿介は浪人となる。
 同12年、立原久綱らと尼子孫四郎勝久(新宮党誠久の五男・国久の孫)を擁立し、主家再興の兵
をあげる。短時日の間に6000の兵を集め、さらに各地で尼子党が呼応するが、かんじんの月山富
田城を陥れることができなかった。
 翌元亀元年(1570)毛利輝元を総大将に、吉川元春・小早川隆景を副将とする1万3000の毛利
軍が出雲に進撃してきて、尼子軍の拠点をしらみつぶしにつぶされていき、翌元亀2年鹿介自身、
末石城(鳥取県大山町)に居たところを吉川元春の軍に攻められて降伏。捕らわれて尾高城(米子
市)に幽閉されるが、隙をみて脱出し織田信長に助けを乞う。それから2年後の天正元年(1573)
の末、鹿介ら尼子一党は再度兵を挙げるも、前回と同じような経過をたどり天正4年、京都へ逃げも
どっている。

 翌天正5年、羽柴秀吉に従って播州上月城(兵庫県上月町)に勝久を奉じて、尼子遺人2300の
兵力で籠ったが、4月18日には毛利軍6万1000の大軍に取り囲まれた。三木城攻撃中の秀吉は
直ちに救援を決意し、1万7000の兵をもって高倉山に布陣するも、毛利の大軍を前に秀吉軍は自
軍を守るのが精一杯であった。
 毛利軍は力攻めを避け、包囲と同時に水源を押さえ、糧道も完全に遮断していた。糧食の欠乏と
毛利軍の無気味な威圧に城兵の士気は日増しに低下、鹿介らの叱咤激励にもかかわらず逃亡兵
が相次ぎだした。進退きわまった秀吉が6月半ば密かに馬を馳せて入洛し、信長直々の出馬を請う
も、信長が下した断は非情なものであった。「上月城は見捨てよ!」帰陣した秀吉は6月26日上月
城を捨て、叛旗を翻した三木城の別所攻略に向かう。
 敵中に放棄され孤城となった尼子主従は、7月1日ついに全面降伏を決意、尼子勝久、嫡男・豊
若丸らの自刃と引き換えに城兵を助命する条件で講和。尼子家は滅亡し、鹿介は捕えられ安芸に
護送中、備中阿井の渡し(高梁市)で殺された。34歳であった。鹿介と知己であった足利義昭の首
実験ののち、その首は鞆に埋葬された。胴は高梁市に胴塚があります。鹿介の有名な三日月の前
立ての兜は岩国市の吉川資料館に展示しています。


       いろは丸想像図とポインターでいろは丸展示館   太田家住宅とポインターで案内説明

[いろは丸事件]
 慶応3年(1867)4月、亀山社中改め海援隊が結成された。伊予大洲藩船の「いろは丸」(イギリ
ス製商船で160トン、速力5ノット、45馬力の蒸気内車船)を、土佐藩士後藤象二郎が大坂への一
航海五百両で借り受け、同年4月19日長崎を出航し大坂へ向けて物資を輸送していた。坂本龍馬
率いる海援隊の初航海であった。ところが、4月23日午後11時頃、備讃瀬戸・岡山県六島沖で紀
州藩の軍艦「明光丸」(887トン、150馬力の蒸気船)に右舷から蒸気室の横腹へ衝突される。動
けなくなった「いろは丸」は「明光丸」に曳航されて鞆の津に向かっていたが、宇治島の南4Kmまで
来た時沈没してしまった。
 翌24日鞆の津に上陸した両者は、27日まで昼夜続行で交渉するが決裂し、交渉の場所は長崎
に移される。この時龍馬は桝屋清右衛門宅に宿泊し、「明光丸」側は円福寺を宿とした。交渉の場
所は、魚屋萬蔵宅や対潮楼が使われた。
 事件の処理にあたって、全責任を負わなければならない海援隊の隊長である龍馬は、なりふり構
わない応接をする。何しろ大洲藩への弁償費(船価42,500両)+借船料(15日間で500両+?
日)+海援隊損費(積載貨物購入費10,000両+運用経費?両)=53,000両以上の大金が懸
かっているのであるから、何としても勝たねばならない係争であった。
 紀州側は最初、この衝突事件の海難審判で土佐側海援隊には容易に勝てると考えていた。相手
は一応、土佐藩の後ろ盾があるとはいえ、もとはといえば長崎の亀山社中で脱藩浪士の集団であ
る。これに対して紀州藩は徳川御三家の名門であり、公儀の出先機関である長崎奉行所が審判に
乗り出して、紀州側に有利な裁定を下すにちがいないと信じていたのである。龍馬が執拗に事件が
解決するまで明光丸を鞆の津に滞船させるよう要望したにもかかわらず、紀州側がこれを振り切っ
て27日に「明光丸」を鞆から出航させたのは、このような事情があったからである。そして紀州側は
29日長崎に着港すると、すぐさま長崎奉行所へ事件の概要を届け出てその意を迎えている。しかも
「いろは丸」には舷灯が点灯されていなかったことを奉行所への上書に記載した。

 一方龍馬側、才谷梅太郎は寺田屋事件で役人を殺傷したお尋ね者であるから、幕府直裁を仰ぐ
道を理由を探して避けた。「いろは丸」の灯火については我田引水論で論破し、「明光丸」が救助の
ため接近して再衝突したことや、衝突時「明光丸」の甲板に士官がいなかったことをことさらに問題
視した。小船である「いろは丸」が先んじて回避するべきであることを等閑に付した。「明光丸」の破
損が右舷に多いことを無視した。また長崎での談判を有利に運ぶため、海援隊が「明光丸」を襲撃
するとか、薩長土三藩が連合して紀州藩に戦いを挑むという風評を世間に流した。等々で、海上交
通のノウハウに乏しく、長崎事情に疎い和歌山藩士が、龍馬・後藤象二郎の詭弁や奸策に翻弄さ
れたようで気の毒にさえ思われてくる。
 5月下旬、和歌山藩が83,000両を支払うことで合意が成立したが、藩で認められず、折衝の最
高責任者であった勘定奉行茂田一次郎は、御役御免逼塞を申し付けられる。10月に再交渉を申し
込むが、仲介役をした薩の五代才助が怒って取り合わないので、難航の末12月上旬70,000両
に減額して落着した。使者が和歌山藩政府に報告した翌日には、王政復古の大号令が発せられる
世情騒然とした中での決着であった。しかし時代の動乱により、いろは丸の船価(実際は3万7・8
千余両)が大洲藩には弁済されていないようで、誰かが着服したとあります。一説には岩崎弥太郎
と名指ししている本まであります。

 同年11月15日龍馬は京都近江屋にて暗殺されるが、龍馬暗殺は和歌山藩士の三浦久太郎が
衝突事件の敗訴を恨み、新撰組を唆してやらせたのだと思い込んだ陸援隊士ら十人余が、三浦の
いた天満屋を襲い、護衛の新撰組と乱闘、双方合わせて三人の死者が出た。さらに応援に急行中
の新撰組隊士と和歌山藩士が互いに敵と誤認し路上で乱闘、死人を出している。
 この様に、坂本龍馬といろは丸事件の余波までありましたが、蒸気船どうしの衝突事故は日本初
であり、これより万国公法が急速に広まっていきました。


龍馬が鞆滞在中に紀州側の襲撃を想定して隠れていた桝屋清右衛門宅の部屋を再現


2005年8月27〜28日24時間テレビのいろは丸調査の写真と模型
過去に回収されたいろは丸の石炭を募金された方は戴けます

 最後までお読み戴きありがとうございました。鞆城本丸跡には、福山市鞆の浦歴史民俗資料館が
あります。また町並みの散策も風情がありお薦めです。

 参考図書
福山市史、福山・府中の歴史 郷土出版社、よみがえる中世 平凡社刊、歴史群像シリーズ毛利元就 学研、月山富
田城尼子物語 広瀬町、坂本龍馬いろは丸事件の謎を解く 新人物往来社、歴史読本、歴史と旅、

鞆の浦観光ガイドはこちらまで


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