備後歴史雑学 

[神辺城]
種別:山城 神辺道上城  別名:紅葉山城・楓山城

 古代の山陽道は、備中の高屋(現井原市)から備後に入り、神辺平野の北縁を通って備後国府が
置かれていた府中に至っていたが、中世の後期になると沿岸部の鞆・尾道が瀬戸内海の要港とし
て繁栄し、山陽道も神辺から南下して、郷分・山手(芦田川右岸)から今津を通って尾道に抜けるよ
うになった。神辺平野の南にある黄葉山に山陽道の「道上城」として城が築かれたのは、南北朝時
代のこととされている(初期の城は黄葉山の北東麓に位置していたという)。
 建武元年(1334)備後守護に任ぜられた、朝山次郎左衛門尉景連が翌2年(1335)神辺城を築
き守護所を置いたと「備後古城記」に記述があり、景連は当初「南朝」後醍醐天皇方に属し、後に
「北朝」足利尊氏方につく。以後何名か備後守護が代わり、延文元年(1356)尊氏方の細川頼之
が中国地方の大将として備後守護を兼ねる。明徳3年(1392)南北朝の争乱が収束して、のち応
永8年(1401)山名時熈が備後守護となり、以後天文7年(1538)に至るまで137年間山名氏が
守護職を独占し、神辺城には代々山名一族が居城していたものと思われる。

 天文7年(1538)大内義隆(義興の子)は神辺城主山名忠勝(氏政)が尼子氏と結んでいたた
め、山手銀山城主杉原理興(ただおき)を先鋒として毛利元就に神辺城を攻めさせた。同年7月毛
利勢5000余騎、山名勢3500余騎が決戦におよび忠勝を敗走させた。山名氏に代わって神辺城
主になった理興は姓を山名と改め、大内氏より備後外郡(南部)の仕置きを任されて、在地武士達を
従えていき勢力を拡大していった。神辺城は一層堅固に修築され戦国山城に改造して城下町の整
備も行った。


神辺城跡西より見る。こちら則に段々と郭があった。

 天文9年9月、尼子詮久(あきひさ・のち晴久・経久の孫)が三万もの大軍勢を率いて安芸郡山城
を包囲するも、毛利勢の奮闘と大内氏の援軍により、翌10年正月尼子勢を敗走させた。この結果、
尼子氏に与していた備後の国人衆達は、雪崩をうって大内氏に従ってしまう。大内氏は絶好の機会
とみて、義隆は天文11年陶興房を総大将とし、一万五千の大軍を率いて尼子氏の本拠富田月山
城を取り囲んだ(大内軍は尼子氏を見限った国人や土豪達が次々はせ参じて三万にも達してい
た)。だが尼子の底力はすさまじく大内勢不利となり膠着状態に陥った。大内方敗色を見て取った
山名理興はここで尼子に賭け、富田城を攻めると見せかけて理興はそのまま城内に入ってしまっ
た。これを見ていた大内方の諸将の中から吉川興経ほか、備後・出雲・石見の国人衆が理興に続く
者続出したため大内方の大敗北となる。


富田城跡西より見る。左則が山中御殿で、正面の月山頂上に本丸、一段下に二の丸さらに三
の丸があった。(ポインターを当てるとアップします)

富田城跡の説明板:ポインターを当てると山中御殿の石垣が見れます。


郡山城の模型南東より見る:ポインターを当てると南西になります。手前が「旧本城」
(毛利時親が建武3年1336年郡山城「旧本城」を築き、吉田を本拠地とした。時親から十二代目が
 元就であり、城郭を大拡張した。)
[郡山合戦]
 「天文9年6月、尼子軍は新宮党を中心に三千余騎の軍勢で、備後路を通って吉田郡山城への進
撃を開始した。赤穴から三次を経て志和地の八幡山城に入り、可愛川の対岸の深瀬祝屋城を攻撃
した。だが城を護る穴戸一族の防備は固く、尼子軍は敗退した。
 同年8月10日、第二次侵攻の尼子軍本隊は富田城を出発。勢力は三万、赤穴から石見路を経て
口羽・川根を通り郡山城の北4Kmの風越山に着陣した。
 毛利軍はこれに対して兵約二千四百、城下の農民・商人たちをすべて城内に入れ、約八千で籠城
した。尼子軍は本陣を郡山城正面の青光井山に移し、双方の小競合いが始まった。毛利軍の地の
利を活かした巧妙な戦法に、尼子軍の旗色は悪かった。その上、大内軍約一万が着陣した。
 翌10年1月13日、元就は宮崎・長尾で戦い、大内軍は青光井山の背後から尼子の本陣を攻め
た。尼子軍は大混乱に陥ったが、尼子義勝(久幸)の奮戦そして討死で、詮久はかろうじて撤退する
ことができ、富田城に向け敗走した。元就45歳の時であった。」


郡山城周囲の城砦跡


 挽回を期した大内義隆は、天文12年神辺城に攻め込んだ。以後同18年9月理興が神辺城を捨
てて出雲に敗走するまで、足掛け7年間にわたって神辺合戦が繰り広げられた。その後、弘治元年
(1555)毛利氏と陶氏の断交を機に理興は元就に侘びを入れ、神辺城に帰るが弘治3年病死し
た。嗣子がなかったため、同族の山手銀山城の杉原盛重が迎え入れられ、毛利氏の尼子氏攻撃の
時には先鋒として活躍している。永禄6年(1563)には伯耆国泉山城主も兼ね、以後泉山城に在
城した。神辺城には息子元盛・景盛を入れた。永禄12年藤井皓玄(もと杉原理興の家老で盛重擁
立に不満を抱き浪人をしていた)により一時城を占拠されるが、わずか数日後には国人衆の協力に
より奪回されたとある。
 盛重の後は元盛が継いだ。しかし天正10年(1582)景盛が兄元盛を殺して城主となるが、同12
年毛利氏によって滅ぼされている。こうして理興以来の杉原氏の支配は終わる。

 以後は毛利氏の直轄城として元就の八男元康が入ったが、しばしば毛利の家中が城を預って交
替した。
 福島正則が芸・備に入封すると慶長9年(1604)正則は、領内にきびしい刀狩りを命じた。芸備地
方に根づいた毛利浪人への対策と思われるが、一方特に有力な者に対しては郷士身分を与えて協
調を計るところもあった。
 神辺城には3万石の城主として、筆頭家老の福島丹波守正澄を置いた。鞆城には大崎玄蕃を置
き新しく築城したとある。三原城には嗣子正之を置いた。東城城には長尾隼人を配置している。しか
し福島正則は、徳川幕府の無理押しとも言える理由で減知転封されてしまう。
 元和5年(1619)備後10万石の大名として、水野勝成が神辺道上城に入城した。しかし勝成は
神辺城が山城で不便なため、芦田川河口の常興寺山に新城を築城した。備後の政治の中心は福
山城下へと移り、約300年に亘り備後の拠点であった神辺城は幕を閉じるのである。その後神辺は
山陽道の宿場町として繁栄が続いた。
 
 水野勝成は福山築城の時、神辺城の櫓を移築している。神辺一番櫓(三層、七間と四間半)神辺
二番櫓(二層、四間と五間)神辺三番櫓(二層、六間と四間)神辺四番櫓(二層、四間と二間)を福
山城西側に配置していたが、昭和20年の戦災にて焼失。
 神辺城の遺構として現存しているのは、城門のひとつを福山市北吉津町にある実相寺に移転して
いる。
 また、元和6年(1620)夏の大洪水により、明王院の裏山が崩れて堂塔が大破したため、当時解
体していた神辺城の建物を移築して書院・庫裡としている。書院は入母屋造・本瓦葺、小屋組みも
古式で玄関も式台に上段を設けた本式のもので、襖絵も狩野派による優れたものである。庫裡も書
院と同年代の建築とあり、入母屋造・本瓦葺の規模雄大な古格書院形式の初期様式を伝えてい
る。いずれも江戸時代初期のもので、県重要文化財に指定されている。



神辺城跡北より見る。中央の木が本丸最上段  一段下西の郭より本丸上段郭を見る
       右下(西側)に向い段々と郭が続いていた

           神辺城の復原図 北より見た図          神辺城跡主要部 左が西側


明王院に移築された神辺城の書院と庫裡


         実相寺に移転された神辺城の城門       神辺本陣(県重要文化財)
         ポインターを当てると裏門になります    同じく左側にある門前になります


廉塾の門と門内、正面が管茶山旧宅(現在は民家)右の建物は塾生の寮舎で当時は三棟ありました

[管茶山と廉塾]
 管茶山(1748〜1827)は神辺宿で東本陣を務めた管波家の長男として生まれた。六度にわた
って京都に遊学し朱子学を学んだ後、天明元年(1781)頃、地元神辺に帰り私塾「黄葉夕陽村舎」
を開く。塾生は神辺・福山を中心に、四国・九州・奥羽にまで及び、あらゆる階層の子弟が茶山の学
徳を慕って入門した。在塾期間は2〜3年で塾生は飯代と書物料を払って寮舎で生活したが、授業
料の徴収はなかった。講師は茶山やその補佐役である都講(塾頭)が務めた。藤井暮庵・門田朴
斎・頼山陽・北条霞亭などが著名である。
 寛政8年(1796)茶山は、塾の永続化を図るために福山藩校の郷塾(分校)とする願いを藩に提
出し受理され、これ以降、塾は「廉塾」あるいは神辺学問所と呼ばれるようになった。

[神辺合戦]
 戦国の梟雄、山名理興(ただおき)の出自は山手銀山城主杉原氏いわれていますが、他説には
府中八尾山城杉原氏であるとか、元々山名氏の家老であった等ありますが、理興が神辺城主にな
ったのは天文7年(1538)7月のことである。当時の安芸・備後の国人衆は、出雲の尼子氏と周防
の大内氏の二大勢力に挟まれ、両雄に附いたり離れたりしながらしのんでいました。
 神辺城は備後の国主として137年間幡居してきた山名一族の居城であり、山陽道を押える備後
の要の城であります。大内義隆より備後外郡(南部)の仕置きを任されて神辺城主となった杉原理
興は、山名宮内少輔を名乗り、在地武士達を従えていき勢力を拡大していった。城郭と城下町を整
備して、次は備後国主の座をねらうと思ったのではなかろうか。

 天文11年大内氏が富田月山城での大敗北の後は、芸・備の国人衆は大部分が尼子側にくら替
えした。山名理興は配下の土豪衆を完全に被官化し領内を把握していて、その勢力は備後の南半
分と備中の一部を含め計五郡に及んでいた。出雲富田城から帰城した理興は、先の尼子攻めで当
主(正平)を失った沼田小早川氏へ攻撃をかけた。元就は自ら出馬して撃退しているが、尼子軍も
再三芸・備に侵攻して来て毛利軍と戦火を交えている。

 天文12(1543)年挽回を期した大内義隆は、重臣弘中三河守隆兼と毛利元就をして神辺城を包
囲させた。ここに前後七年にも及んだ神辺合戦が始まります。
 隆兼・元就は協力して城攻めに及んだが、城方の結束が固くて要害堅固な神辺城は容易に落城
せず、持久戦へと持ちこまれた。大内方は沿岸部の連絡を強化するため、小早川氏の協力を得て
手城島(現福山市手城町)に城を築かせて、小早川隆景は天文14年から同16年まで鞆に在陣し
た(隆景15歳の初陣であった)。
 同16年大内方の攻撃は本格化し、神辺城の南方外郭といえる出城である坪生の龍王山城を落と
し、さらに宮次郎左衛門尉の籠る坪生要害を激戦の末落とした。陸上からは大内・毛利の主力が西
より迫り理興方の出城は次々と陥落。
 
 翌天文17年6月大内方は陶隆房(晴賢)を総大将に、弘中隆兼・杉甲斐守・小原隆言・毛利元
就・隆元・吉川元春・小早川隆景・平賀隆宗と名だたる武将が参加し、総勢一万五千余で神辺城総
攻撃が開始された。攻撃は極めて激烈であり城内へ突入する者もいたが、神辺城を落とすことはで
きなかった。理興は天下にきこえた猛将だけに圧倒する寄せ手の大軍を前にして、少しもひるまず
知略をつくして防戦した。七日市の戦いや籠屋口の戦いと一進一退の激戦をくり返し、戦いは長期
戦になっていった。
 持久戦となり大軍を遠隔地に留めることに懸念を感じた平賀隆宗(安芸・頭崎城主)は、義隆に進
言し神辺城攻撃の一切を任すことを許され大内・毛利勢を撤退させる。隆宗は神辺城の北に向城を
築き兵を入れて対峙した。
 城対城の対峙となり動きがとれなくなった理興ですが、それでも一年間頑張りました。しかし周り
は敵ばかりで肝心の尼子氏に理興を救う力が無いとわかり、天文18年9月4日理興は夜陰にまぎ
れて城を脱け出し、富田月山城に逃げ込んだ。遂に彼の野心は潰え去った。
 義隆は神辺城を重臣青景隆著に守備させた。しかし理興の運が尽きたわけではなかった。

 晴天の霹靂が起きたのである。天文20年(1551)8月28日大内家譜代の重臣陶隆房(晴賢)が
主家に反逆した。山口の大内館を襲い、主君義隆父子を長門の大寧寺へ追い詰めて自刃させた。
 毛利元就はすぐさま芸・備両国の経略にとりかかった。尼子晴久は天文21年4月、将軍足利義輝
から出雲・隠岐・因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後八か国の守護に任ぜられた。大内義隆に代わ
る中国地方の安定勢力と認められたのである。そこでこの権力を得た晴久は備中・備後へ浸出して
きたが、陶晴賢は奪取した政権安定化のため多忙で動くことができず、しかたなく元就に国人衆を
率いて尼子勢に敵対する権限を与えた。元就はこれを利用して尼子勢の浸出をくい止め、着々と軍
事的成功をおさめていき、芸・備の国人との主従関係を拡げ固めていった。その行き着くところは、
芸・備の国人が元就を盟主として独立することを意味していた。
 ついに元就にとって、乾坤一擲の大勝負がやって来た。弘治元年(1555)の厳島合戦(9月晦
日・元就厳島上陸、翌10月1日未明・決戦)に大勝利する。
 山名理興はこの様な緊迫していた同年、元就に侘びを入れ、再び神辺城に帰城(月日不詳)して
いる。以後、元の杉原氏を名のり毛利氏の先鋒として活躍したとある。弘治3年中風のため没する
とあるも、銀山城主杉原家の系図には、「杉原豊後守平朝臣・従五位下・永禄七年(1564)甲子五
月十六日没・行年五十八歳」と記載してあります。

 [番外遍]
 一冊の本「続・古城をめぐる」(人物往来社、昭和36年発行)に異説が書いてありますので記して
おきます。
 山名理興(忠興)は近隣に鳴り響いた強弓の名手で、圧倒する寄手の大軍をまえにして少しもひる
まず、知略をつくして防戦したので、戦況は一進一退の激戦をくり返すばかりで容易に勝負は決しな
かった。この時寄手の一方の将、平賀隆宗は陶隆房の本営におもむいて「かねて理興に遺恨あり、
若し理興の所領を賜わば隆宗の一身の経略をもって、きっとこの城を落し理興の首級を挙げよう」と
申し出た。そこで隆房は向かいの曾根原に城を築かせて平賀の陣とし、その他の諸将の陣営はこ
とごとく引きはらってしまった。その後、平賀の軍勢はしばしば神辺城を攻めたが、勝負を決すること
が出来ずに3年の歳月は流れた。こうなると寄手の平賀勢は不利となり、止むなく隆宗はすべての
運命を賭けて、理興と決闘して勝負を決しようと覚悟し一通の書面を理興のもとへ届けた。
 「長い間お互いに勝負の決まらない戦いをして多くの将兵を殺傷したが、ここで共に運命を賭けて
勝負しようではないか。そこで貴殿の強弓の矢を二本、わが胸に受けてみよう。もし矢が当れば隆
宗の運のつきで恨むところはないが、もし矢が外れたら、ただちに城を明け渡して退却されたい」と
いうことが書かれてあった。理興は強弓に自信があるだけに、この申し出を喜んで承知し「神かけて
違約申さぬ」と誓った。

 時に天文19年(1550)10月13日、神辺城の麓で雌雄を決することになった。
 この日、隆宗は狩衣のままで静かに床几に腰を落し、一町ばかり離れて弓を持って立つ理興を睨
みすえた。両軍の兵士は息をのみ声ひとつ立てない。やがて合図の太鼓が鳴ると、理興は大羽の
黒矢をつがえて「何処を射ようか、注文通りに射て進ぜよう」と呼ばった。すかさず隆宗は鉄扇でわ
が胸をたたき「ここだ、ここだ、弓の強さ、矢じりの鋭さをためしてみん」といい放ち、眼を閉じた。間
もなく、ヒュウ!と弦音がして、矢は隆宗の胸板めがけて放たれた。しかし、隆宗は泰然と床几に腰
を下したままであった。「長い籠城故に、さすがの理興殿の弓勢も衰えたと見える。わずか一町足ら
ずの的を射そこなうとは。しっかり見定め、残りの二の矢で、わが胸を射通して賜れ!」隆宗はそう
いって、もう一度鉄扇でわが胸をたたいた[実際は、矢は脇腹をえぐり抜けたのだが脇差をかすめた
ために深くささらずにそれた。隆宗は名うての剛の武者、流れる血潮をおさえもせず、相手の心を乱
して二の矢をはずそうと計り、偽ったのである]。理興は今度こそはと、キリキリと弓をしぼりヒユツと
放ったが、矢は隆宗の肩の上をかすめて、背後の石に当り矢じりは砕けとび散った。
 隆宗の顔は喜びに輝き、すっくと立ち上がり「約束通り、明日城を明け渡してもらおう」といい残し
て、さっさと平賀の城に引きあげていった。理興は城中に入ると家臣たちをさとして翌14日に城を開
き、自ら手勢を率いて、尼子氏をたより出雲へと落ちのびていった。かわって平賀隆宗が入城して、
神辺合戦の幕を閉じる。

[福島治重]
 丹波守、後に正澄。正則の叔父にあたる。関ヶ原の合戦では奮戦して片足を負傷し、その後は不
自由となった。正則からの信頼篤く芸備入封後は神辺城を任され、後三原城を任された。
 福島家が所領没収の際には、城代に任じられていた福島丹波が家中をよくまとめて籠城の準備を
行った。刻限を定めて非戦闘員を城外に出し、門を閉じ、いかなる者も城内に入れてはならぬと厳
命をくだした。この時たまたま遠出をしており、心ならずも門限におくれた林亀之丞は、入城を乞うも
許されなかったので「お家の大事の時に役に立てないとはなんたる不名誉、せめて武士として名を
惜しもう」として、城門の前で割腹をしてしまった。という事もあり、籠城した福島武士の志気は高ま
ったという。
 幕府の上使として永井直勝、安藤重信が城明け渡しを申し入れると、城代の福島丹波は「この城
は主君の左衛門大夫より預けられた城でござる。よって左衛門大夫の墨付が無ければ明け渡す事
なり申さぬ。墨付を持参して出直してまいられますよう。これを不承知であれば我等かなわぬまでも
弓矢を持って応対いたそう」と、堂々と突っぱねた。これを伝え聞いた正則は感激のあまり号泣し
て、なにか間違いが起こらぬようにと急ぎ墨付を書いて使者に渡した。この福島家中の見事な城明
け渡しは諸大名にも評判となり、福島家中の旧臣とあれば競って召抱えようとなったという。正澄も
浪人後、紀州家より2万石、前田家より3万石にて招かれたが、二度と主取りをする気はないと丁重
に断り、入道して悠々と人生を終える。
 余談になりますが、福島家の侍大将三人、福島丹波守は片足が不自由で、尾関石見守は隻眼で
あり、長尾隼人は聾者でした。いずれも往年の戦いに傷つき生き残った戦国武将です。

 最後までお読み戴きありがとうございました。神辺城祉へは本丸近くまで車で上れます、駐車場も
あり隣接して神辺町立歴史民俗資料館があります。また廉塾とは別に管茶山記念館もあり、旧山
陽道沿いは宿場町の面影が残っています。

 参考図書
神辺城の歴史・神辺の歴史と文化 神辺郷土史研究会、 神辺城と藤井皓玄 内外印刷、 山城探訪 備陽史探訪の
会、 福山市史、 八ツ尾山杉原城主記 杉原茂著、 歴史群像毛利元就 学研、 歴史読本、歴史と旅、 続古城を
めぐる 人物往来社、

神辺町の観光ガイドはこちらまで


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